日本化学工業 6価クロム事件(2025年12月29日追記)
| 違法残土の山「行徳富士」(日本化学工業 6価クロム事件とは関係ありませんが、高度成長期の負の遺産として) |
「日本化学工業 6価クロム事件」とは、日本化学工業株式会社小松川工場の産業廃棄物である6価クロム鉱さいが、工場の敷地内外をはじめ、市川市内など多数の場所に埋め立てられたもので、土壌汚染問題は今も続いています。
東京都江東区大島および江戸川区小松川の旧中川と荒川右岸の周辺では,日本化学工業株式会社(日化工)小松川工場が大正期より 1973 年までクロム酸塩の製造を行ってきた。それにより発生した多量の 6 価クロム(以下 Cr6+)鉱さいは,江戸川区および江東区の工場敷地内外や,近隣する江東区南砂,江戸川区堀江および小名木川,市川市,浦安市,さらに羽村市や横浜市などの多数の場所に埋め立てられた。この問題は,本地域の再開発事業と都営地下鉄新宿線の建設に伴って 1973 年に発覚し,以後,重大なレベルの都市土壌汚染問題として深刻な社会問題に発展した。
鉱さい(鉱滓)とは、鉱物を精錬する際にできる滓(かす)で、スラグとも呼ばれています。鉄やニッケル、クロムといった鉱物を高温で溶かした際の不純物(副産物)のほか、ゴミ焼却施設で発生するものなどもあります。
クロムは、原子番号24の金属元素。元素記号はCr。ギリシャ語のchromaに由来していて、この言葉は「色」を意味しています。宝石のルビーの赤、サファイアの青、エメラルドの緑は、石に微量に存在するクロムによるものです。
このようにクロムは自然界に存在し、岩石だけでなく動植物などにも含まれています。
そして、酸化数によって0価(金属)クロム、3価クロム(酸化数が+3)、6価クロム(酸化数が+6)などがあります(酸化とは、電子を失う反応)。
3価クロムは自然界に存在し、皮革なめし剤やサプリメントなどに用いられています。 また、人間の体内では糖質や脂質の代謝、たんぱく質合成に関与し、たんぱく質分解酵素の成分でもあります。
0価クロムと6価クロムについては、多くが工業的に製造されるものです。0価クロムはステンレス鋼などの製造に用いられます。そして6価クロムは、めっきや顔料、防腐剤などに用いられています。
6価クロムは不安定な物質で、自然界にほとんど存在しません。そして毒性が強く、皮膚や粘膜を刺激し、粉塵を吸い込むことで鼻の穴を左右に隔てている壁(鼻中隔:びちゅうかく)に穴を開けたり(鼻中隔穿孔)、アレルギー性皮膚炎やぜん息を引き起こしたりします。加えて、発がん性があることが、疫学調査でわかっています。
そんな6価クロムを含む産業廃棄物の6価クロム鉱さいを、市川市内にも勝手に埋めていたのが、日本化学工業株式会社でした。ホームページを見ると、事業内容は「燐製品、珪酸塩、バリウム塩、クロム塩の無機化学品を主力に、電子材料、有機化学品、農薬などの製造販売・輸出」とのこと。
日本化学工業株式会社の本社は、東京都江東区亀戸。創業は1893(明治26)年、創立が1915(大正4)年で、合併前の日本製錬株式会社だった1935(昭和10)年に「小松川第二工場の建設により苛性カリの製造を始める」とホームページにあります。小松川とは、東京都江戸川区小松川で、日本化学工業株式会社は小松川にいくつもの工場を建設していたのでしょう。
日本化学工業株式会社(当時は「棚橋製薬所」)の創業者である棚橋寅五郎は、1908(明治41)年頃からクロム酸塩類の重クロム酸カリウムの製造研究に着手(塩〈えん〉とは、酸の陰イオンと塩基の陽イオンが結びついてできたもの)。他社に先駆けて重クロム酸カリウムの国産化に成功し、主力製品へと発展したそうです。
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| クロム酸ナトリウムの製法に関する研究より |
日本化学工業株式会社小松川工場は、1915(大正4)年から1973(昭和48)年までクロム塩の製造を行っていました(Wikipediaでは「1908年 - 東京小松川に工場を建設。クロム塩の製造を開始。」)。工場で発生した多量の6価クロム鉱さいを、工場の敷地内や周辺部だけでなく、市川市や浦安市などに埋めていたわけです。
小松川工場では、次の工程でクロム酸塩の生産が行われていました。
1 クロム鉱石に、苛性ソーダと細かく砕いた石灰を一定の割合で混ぜ合わせる
2 混ぜ合わせたものを回転炉か反射炉に入れて、800~1000℃で焼く→3価クロム・6価クロム
3 焼いたものを水に浸して6価クロムを溶かす→クロム酸ナトリウム(クロム酸ソーダ) ※残ったカスがクロム鉱さい
4 クロム酸ナトリウムの液体に硫酸を入れてかき混ぜ、沈殿物(硫酸ナトリウム)を取り除き上澄み液を加熱して濃縮する
5 濃縮された上澄み液を濾過する
6 濾過した液体の沈殿物から、液体を絞り出す→重クロム酸ナトリウム(重クロム酸ソーダ) ※搾りカスはクロム鉱さいと一緒に廃棄
7 重クロム酸ナトリウムの液体を煮詰め、結晶機にかけて冷やした後、遠心分離機にかけて水分を飛ばす
8 乾燥機で乾燥させて、重クロム酸ナトリウムの製品化が終了
作業場には、粉塵と6価クロムを含む蒸気が蔓延していました。室内は高温のため、作業員は肌をむき出しにしていました(下の写真)。全身が粉塵で真っ黒になるだけでなく、肌には斑点が生じていました。そして10日ほど働くと鼻血が出る、長い年月では肺がんになるなどの健康被害がありました。
| 『ドキュメント:クロム公害事件』(著/川名英之 緑風出版)より |
日本化学工業株式会社が1939(昭和14)年から投棄したクロム鉱さいの量は約57万トンで、後に投棄した場所がわかったのは約33万トンでした。
○投棄した場所
東京都江戸川区・江東区・墨田区
千葉県市川市・浦安町(当時)
横浜市緑区
○区分
民有地:113カ所→一般住宅、団地、駐車場など
公有地:59カ所→校庭、公園、道路、河川敷、沼地など
1970(昭和45)年には、市川内の区画整理埋立地など数カ所から、埋設された6価クロム鉱さいが発見されていました。
『ドキュメント:クロム公害事件』(著/川名英之 緑風出版)には、次のように書かれていました。
一九七〇年(昭和45年)千葉県市川市幸二丁目の区画整理埋立地からクロム鉱滓五万トンを発見。その後も同市欠真間など四カ所から六万三千トン、浦安町埋立地に二千トンなど続々見つかる。市川市で鉱滓を埋め立てたさい、業界団体である日本化学工業協会の前専務理事が日化工の依頼でクロム鉱滓を無害と書いた証明書を作成。日化工の下請処理業者がこれをもとに農家を説得、埋め立てを進めた。地主たちが東大、千葉工大に分析を依頼したところ、最高十三万八千ppmという高濃度。
※ppmは濃度を示す単位で、100万分の1(1ppm = 0.0001%)
1971(昭和46)年に、江東区は日本化学工業グランド跡地に野積みされていたクロム鉱さいから6価クロムを検出し、同社や東京都に対策を要請しました。
1973(昭和48)年3月、東京都は亀戸・大島・小松川再開発事業に着手するため江東区大島 9 丁目の日本化学工業株式会社の所有地を購入したところ、大量の6価クロム鉱さいがあることが判明しました。
同年5月に、東京都公害局職員が江戸川区堀江町(現在の南葛西)に出向き、6価クロム鉱さいの投棄と環境の汚染状況を調査しています。そして1975(昭和50)年に江戸川区堀江町での汚染実態調査をしようと計画したところ、堀江町区画整理組合が「調査をすれば地価が下がる」と反対したとのこと。加えて東京都首都整備局と江戸川区も反対したために、調査を見送ったようです。
1975(昭和50)年8月、日本化学工業株式会社の小松川工場でクロム酸塩の生産作業に従事していた多数の従業員に、6価クロムによって肺がんや鼻中隔穿孔などが発生していたことが明らかになりました。周辺住民にも皮膚炎などを訴える被害がありました。
市川市は日本化学工業株式会社に、6価クロム鉱さいの全面撤去を要求しました。当時は鈴木忠兵衛市長でした(任期:1974年1月30日~1977年12月11日)。
同年の8月14日に、日本化学工業株式会社の棚橋幹一社長が、問題発生以来初めて記者会見を開きました。そのときの発言が、『ドキュメント:クロム公害事件』に書かれています。
「職場で発生するクロム障害と鉱滓の中の六価クロムとでは濃度の点で比較になりません。これまで鉱滓の埋め立てによって住民に健康被害が出ていないことは、一昨年(四十八年)の都の健診でも、はっきりしています。また鉱滓は捨てたのではありません。地主の要請で埋めたのです」
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| 日本化学工業株式会社 棚橋幹一社長(早稲田応用化学学会報より) |
そして8月26日の東京都議会公害首都整備委員会参考人として呼ばれた際に、次のやり取りがあったそうです。
棚橋は質疑前のあいさつで、「クロム鉱滓は規制で有害とされていますが、実際に住民の健康被害が出ておりません。従って無害だと信じています」と述べた。これを受けて公明党の委員、鈴木善次郎がビニール袋に入ったクロム鉱滓を振りかざしながら、鋭く迫った。「棚橋社長、あなたがあくまでクロム鉱滓を無害と信じているというのなら、この鉱滓を水に溶かして飲んでみなさい。飲めますか。どうですか」棚橋は、しばらく黙っていたが、ついにたまりかねたように「鉱滓は健康上の障害が生じると思います」と言い直した。
ただ、「鉱滓は健康上の障害が生じると思います」と言い直した後も、日本化学工業株式会社サイドは無害を主張したと『ドキュメント:クロム公害事件』には記されています。
ちなみに、社長の自宅は、東京都世田谷区の住宅街に建つ豪邸とのこと。
日本化学工業株式会社は、長年にわたり患者発生を隠していました。さらに、戦前から1972(昭和47)年まで、6価クロム鉱さいを江戸川区、江東区や千葉県など34カ所(論文では172カ所)に投棄していて、その一つが千葉県市川市行徳義兵衛新田と毎日新聞で報じられます。
また、『校歌は生きている』(市川市教育委員会編)には、福栄小学校は、当初、福栄中学校の近くに建設する予定だったと書かれていました。しかし、6価クロム鉱さいの投棄場だったことから、現在地になったとのこと。
そして、日本化学工業株式会社との関連性はわかりませんが、2013年に浦安市北栄のダイエー店舗用地から6価クロムなどが検出され、土壌汚染対策法違反の疑いでダイエーと当時の社長が刑事告発されました(後に不起訴処分)。
東京都は、1979(昭和54)年3月に日本化学工業株式会社と「鉱さい土壌の処理に関する協定」を締結し、6価クロム鉱さいの処理は2000(平成12)年5月に処理は終了しました。
汚染された土地は都立小松川大島公園に転用され、封じ込め処理後のモニタリングと対策が続けられています。
2012(平成24)年2月には、都立小松川大島公園の歩道や集水桝に、6価クロムを含んだ水が環境基準を超過して流出していることが確認されています。
都によると、江戸川区小松川1丁目の路上で昨年2月、都の職員が六価クロム特有の黄色い水が都道の裂け目から染み出しているのを発見。還元剤をまいて無害化処理し、同4~5月に深さ50センチ分の汚染土約120トンを取り除いて再舗装したが、その際、土壌中の水分1リットルあたり11.1ミリグラムの六価クロムを検出した。環境基準同0.05ミリグラムの222倍にあたる。
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| 東日本大震災との関連が疑われる鉱滓埋立地近傍の強アルカリ滲出水における高濃度クロムより |
6価クロムは、耐久性と耐食性が高いことから、自動車部品から装飾品にまで広く用いられるようになりました。しかし、有害であるため、1990年代以降、規制が強化されました。
それでも6価クロムによる公害は発生していました。
映画「エリン・ブロコビッチ」にもなったのが、ヒンクリー地下水6価クロム汚染訴訟です。史上最高額の環境汚染訴訟として知られています。
1992年、南カリフォルニアのエド・マスリー弁護士事務所で事務員として働いていたエリン・ブロコビッチは、ロサンゼルスの北約150キロにある小さな町、ヒンクリーの不動産関連の書類を整理していたときに、次の資料を見つけました。
○電力会社・パシフィックガス・アンド・エレクトリック(PG&E)がヒンクリーの住宅を買い上げていた
○ヒンクリーの家庭の医療記録が含まれ、血液検査で免疫が低下していることが示唆されていた
ブロコビッチがヒンクリーに出向くと、鼻血が止まらない子ども、のどや皮膚にがんが発生している人や、腎臓や肝臓が低下している人、呼吸器系の病気の人を目にします。PG&Eが住宅を購入したのは病気と関係あると考え、さらに調査を重ね、地下水汚染を突き止めます。
PG&Eの送電設備冷却に使われていた6価クロムが、長年にわたって垂れ流され、地下水に浸透。そして住民に健康被害が出ていたのです。住民たちはPG&Eを相手取り集団訴訟を起こし、1997年に和解成立。約350億円(当時)という巨額の賠償金(和解金)が支払われました。
6価クロムを還元して3価クロムにする(無害化)方法として、バイオレメディエーションが研究されていました。バイオレメディエーションとは、微生物や植物などの生物が持っている能力を使う技術です。
■主な参考資料
『ドキュメント:クロム公害事件』著/川名英之 緑風出版
不法投棄 写真特集
東日本大震災との関連が疑われる鉱滓埋立地近傍の強アルカリ滲出水における高濃度クロム
六価クロム汚染土壌対策
ダイエー浦安店建設地で基準値を超える六価クロム等が検出される
【土壌】ダイエーを不起訴(千葉)
平成26年第3回定例会一般質問の詳細(9番~12番)
市川市行徳義兵衛新田の報道写真 2点
1975年(昭和50年)8月、東京・江東区に本社を置く日本化学工業の多数の従業員に、六価クロムにより肺がんや鼻中隔穿孔などが発生していたことが明らかになった。同社の工場で重クロム酸ソーダなどクロム酸塩の生産作業に従事していた。同社は長年にわたり患者発生を隠してきた。同社は戦前から1972年(昭和47年)までに大量の六価クロム鉱さいを江戸川区、江東区や千葉県など34カ所投棄していた。東京都公害局は投棄地域の健康診断などの対策を急ぎ、有害な投棄を続け、患者発生を隠してきた同社の企業責任を厳しく追及する。
儀兵衛新田ぎへえしんでん千葉県:市川市儀兵衛新田[現在地名]市川市宝たから一―二丁目・幸さいわい一―二丁目・末広すえひろ二丁目・塩焼しおやき三丁目加藤かとう新田の南西にあり、南は塩浜に面している。寛保三年(一七四三)江戸神田かんだの儀兵衛によって開発された新田といわれるが(下総行徳塩業史)、「東葛飾郡誌」は安永四年(一七七五)に「儀兵衛と申す浜」を取立てて成立した新田とする。
土壌汚染
日本化学工業六価クロム事件
日本化学工業株式会社
クロム酸ナトリウムの製法に関する研究
「総復習・総合 六価クロム事件」
六 価 クロ ム に よ るDNA損 傷
クロム酸(6価クロム)中毒に対する治療方針
第5章 火葬場における放射性物質及び六価クロムの調査と作業環境調査
有機性廃棄物との混合埋立における廃棄物中六価クロムの還元に関する実験的検討 第1報
負性を帯びた土地資本の理論-六価クロムによる土壌汚染事例を踏まえて
環境中 6 価クロムの還元プロセスの解明と汚染修復への応用
No. 5 クロム(Chromium)
早稲田応用化学学会報
昭和38年以降は代表取締役社長として社業の先頭に立って会社の発展に大いに貢献した。 その間種々学協会や経団連・日化協その他の理事や会長をつとめ,特に日本無機薬品協会の会長と して20年以上の長きに亘り無機工業薬品業界の発展に尽力した功績はひとしく認められる処である。 また日本化学工業(株)としては昭和50年に所 謂公害問題が発生し,執勘なマスコミ攻勢を伴っ たトラブルに進展した。棚橋社長は自ら率先して 陣頭指揮にあたり全社一丸となって数年以上に亘る努力の結果,創業以来の危機を解決した。〔追記〕尚この原稿提出の前日になってから故人に勲三等瑞宝章,正五位の叙勲が決定され, 9 月29日に伝達される旨の連絡があった。誠に名誉なことであるが,出来れば生前に彼を喜ばせてあげたかった。然しこれで棚橋幹一君の霊は定めし満足であろうと安堵の胸をなでおろしたことを付け加えておく。
無機化学の分野ではトップクラスの化学メーカーである日本化学工業の棚橋幹一氏、棚橋純一氏の自宅は東京都世田谷区の住宅街に建つ一軒家です。
※追記 めっきの歴史(2025年12月29日)
酸と塩基の反応を中和といって、中和でできる水以外のものが塩(えん)です。塩の多くは水に溶けて、水溶液は中性になったり、酸性になったり、塩基性(アルカリ性)になったりします。
クロム酸塩CrO4(2-)は、クロム酸カリウムK2CrO4を水に溶かしてクロム酸イオンCrO42- になったときに、ほかの物質を加えて塩になったものです。クロム酸イオンが溶けた水に鉛イオンPb2+ を入れると、クロム酸鉛PbCrO4ができます。クロム酸鉛などの6価クロムは、クロムが+6の酸化状態を取る化合物です。
「めっきがはがれる」などの慣用句もあるめっきは、滅金(めっきん)が語源とされています。水銀に金を溶け込ませると、金が姿を消すことから滅金(めっきん)、それが鍍金(めっき)と言葉が変化したようです。
めっきとは、薄い金属や合金で素材を覆う技術のこと。
紀元前3500年に、メソポタミアで銅に錫(スズ)を加えた青銅で、武器や工芸品を作られるようになりました。
また、紀元前1500年には、やはりメソポタミアで、鉄に錫を塗って、白く美しくし、さらにサビが防いだとされています。
人類が金属で道具を作るようになった長い歴史の中でのかなり古い段階で、めっきの技術は生み出されていたようです。
そのほかに広まっためっきの方法は、水銀に金を溶け込ませたアマルガム(水銀と他の金属との合金の総称)を、めっきしたいものに塗りつけ、それを加熱し水銀を蒸発させて金を付着させる金アマルガム法です。
水銀は常温で液体で、20℃で気化するという、非常に揮発しやすい金属です。蒸気として吸入された水銀は、肺で70~80%が吸収されます。そして頭痛、呼吸困難、肺水腫、下痢、嘔吐、肝不全、腎不全などのさまざまな症状を引き起こすのです。
紀元前のエジプト、ギリシャ、中国の古代文明圏に金アマルガム法は普及しました。紀元前700年には東ヨーロッパの遊牧民族、紀元前500年には中国の古代王朝で、青銅器に金めっきが施されていたようです。757年に完成したとされる奈良の東大寺の大仏にも、金アマルガム法が使われています。作業者は、水銀中毒に侵されたと考えられます。
そんな水銀ですが、なぜか薬と思われていました。欧米では水銀は頭痛薬などに使われていました。アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンは、便秘や頭痛の薬として水銀を服用していたようです。
古代中国の秦の始皇帝は、不老不死の薬として水銀を飲んでいたことで知られています。
水銀のリスクがはっきりと示されるようになったのは、熊本県水俣市に1953年~1960年にかけて発生した水俣病とのこと。それ以前にも水銀中毒による死亡事故などは起こっていました。ハンターラッセル症候群として、水銀の中毒症状は1940年に報告されていました。
また、クロムについては、1797年にフランスの化学者・薬剤師のルイ=ニコラ・ヴォークランが、シベリア産の紅鉛鉱(クロム酸鉛、PbCrO4)から発見しました。ヴォークランは、クロムを酸に溶かし、鉛を沈殿させてクロムを単離しました。
1816年にイギリスでクロム化合物の工業生産が始まります。
1869年にはフランスでクロムを使用する仕事に従事した労働者の鼻中隔穿孔と皮膚障害が、そして1890年にはスコットランドで鼻のがんが、1912年にドイツで肺がんが報告されています。
1919年に、日本の農商務省工務局が「金属中毒の予防注意書」を発行。この中で、クロムや水銀などの中毒予防法が記載されています。クロムについては、鼻中隔穿孔、慢性気管支炎、肺炎、腎臓炎が特有の中毒症状として挙げられて、工場責任者が守るべき予防措置が具体的に記述されているとのこと。
1927年に慶応大学医学部耳鼻科の小比木修三医師が、クロムを使用する仕事に従事した労働者の鼻中隔穿孔を診察し、クロムによる中毒と診断しました(小此木修三, 他: クローム中毒について(第2回報告), 重クローム酸カリ工場 従業者の鼻腔変化について, 耳喉1(5): 591-594, 昭3. )。
めっきの歴史に話を戻すと、1600年代半ばには置換めっきが行 われるようになった。置換めっきとは、めっきをしたい金属を、ほかの金属が溶けた水溶液に漬けて、めっきしたい金属の表面を溶かして水溶液中の金属を付着させる方法です。
その後、1800年にボルタ電池が発明され、5年後の1805年にイタリアの薬剤師で発明家だったルイジ・ヴァレンティノ・ブルニャテッリでが電気めっきを発明しました。
1838年、ドイツ生まれのロシアの電気技師・物理学者であるモーリッツ・ヘルマン・フォン・ヤコビ (ロシア名ボリス・セミョノヴィチ・ヤコビ)が電気めっきによって印刷版を作成する方法を開発します。
1840年、イギリスの眼科医のジョン・ライトが、金めっきや銀めっきを行う際に、シアン化カリウムが適していることを発見しました。ライトは、眼鏡製造業者のジョージ・リチャーズ・エルキントンとヘンリー・エルキントンと、世界初の電気めっき法の特許を取得しました。
クロムめっきの発明は、1854年、ドイツの化学者のロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼンによるものとされています。
1920年には、ドイツのG・J・サージェントが無水クロム酸に硫酸を加えた浴(めっきを行うための液体)でのクロムめっきについて報告したとのこと。この方法を、サージェント浴とも呼ぶのだそうで、これが6価クロムめっきの始まりとされています。
日本では1927年頃にクロムめっきが始まったとのこと。
■主な参考資料
歴史とともに発展してきた「内部告発訴訟」って…政府に代わって「市民」が起こす
古代西アジアの鉄製品
一銅から鉄へー



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