ハイソ真間川と桜並木との、実は深い関係

   洋の東西を問わず、古代から治水・利水は共同体の大きなテーマ。飲み水がなければ人間は生きていけませんが、洪水などでおぼれたら死んでしまいます。私たちにとってちょうどいい量の水を、途切れることなく得るための工夫が、いつの時代でも重要でした。

 日本においては、行基(飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した僧侶)といったいわゆる偉人や、武将、そして地域の人たちが洪水対策などの治水事業を行ったようです。
 そして江戸時代には、藩ごとに土木工事が行われていました。
 明治になると、国として、内務省が河川を管轄。1896(明治 29 )年に交付された河川法(旧河川法)では、河川の管理を都道府県知事が行う「区間主義」だったとのこと。

 その後、1948(昭和23)年に設置された建設省(2001〈平成13〉年に国土交通省に再編)が、河川を管理することになります。1964(昭和39)年に新河川法が制定され、「水系一貫主義」に改められたのだそうです。


 ここで、真間川の歴史を振り返ります。

「ハイソ真間川」


クラナリ(2022年8月23日『クラナリ』初出)




 現在は、江戸川の合流点(市川市市川4丁目地先、根本排水機場)から原木2526−35(真間川水門)までの全長8.5kmの川ですが、もともとは半分程度の長さでした。
 長くなったのは、人口増加と関係しています。


 1894(明治27)年に総武鉄道(明治40年に国有化、今の総武線)が開通。

 1905(明治38)年には江戸川橋(今の市川橋)がかけられました。

 さらに1914(大正3)年に、京成電気軌道株式会社が江戸川と市川新田(今の市川真間)の間に電車を走らせました。


 このように交通の便がよくなったことも関係して、市川の人口が急激に増加しました。1920(大正9)年は1万7921人でしたが、1925(大正14)年には2万9528人になっています(市川市の人口推移 © 人口・面積・人口密度)。5年間で約1.6倍です。


 そのため、住宅地が必要となりました。


 当時、須和田から菅野にかけて湿地帯が広がり、菅野の昭和学院の周辺部から江戸川へと真間川は流れていました。そして、大雨が降ると真間川から水があふれ出し、水害に見舞われていたとのこと。
 水害を防ぐために、真間川を原木まで伸ばして東京湾につなげる改修工事が行われました。これが真間川"放水路"です(放水路とは、洪水などを防ぐために建設された水路)。

 以下の左側の地図は、1896~1909年頃の市川市の様子です。右側の地図にある、青い丸の部分の真間川が、左側の地図にはありません。
 1912(明治45)年に「八幡町他九ヶ町村耕地整理組合」が発足し、水路が開削されることになりました。この事業が終わるのは1919(大正8)年です。

今昔マップより(一部改変)

 そして湿地帯が埋め立てられ、住宅地や耕作地が整備されました(詳細は、市川市真間5丁目近辺、台地を削り取って地形が変わっちゃった問題)。

1941(昭和16)年頃の真間川の風景(所蔵/塚本里乃 提供/市川写真家協会『市川市の昭和』いき出版)


1942(昭和17)年の真間川の風景(『市川市の昭和』いき出版)


 真間川の桜並木が生まれたのは、1949(昭和24)・1954(昭和29)年のことです。市川市政の15周年記念行事・市制施行20周年記念行事として、国道14号(境橋)から上流 2.5km区間に、市民の手によってソメイヨシノが植えられました。


 しかし、真間川の水害は続いていたようです。
 理由は、人口の増加が続いたため。1955(昭和30)年頃から高度成長期が始まり、首都圏では都市化が進みました。もちろん、市川も含まれます。

 こうして台地や丘陵地は森林が伐採され、住宅が建てられました。そして耕作地などがどんどん住宅地に変わっていき、地域全体で土地の保水力が衰えていったようです。
 また、浸水の被害が起こりやすいと過去の例からわかっている低地でも、住宅が建てられていったそうです。
 さらに、浸水被害以外の問題がありました。生活排水が真間川などに流れ込み、汚濁していたのです。ちなみに、真間川に流れ込む春木川は、水質全国ワースト1という実績があります。


 1950(昭和25)年頃から、真間川改修の住民運動が始まったそうで、1955(昭和30)年に「真間川改修促進期成会」として組織化されました。メンバーは政財界の人々のようで、顧問には国会議員、県議会議員、市議会議員、そして市川市長の名前が並んでいました。事務局は市川市役所に置かれました。


 1958(昭和33)年の狩野川台風で、真間川流域は5000戸を超える浸水被害が起こりました。

1958(昭和33)年の市川真間駅近くで線路上を歩いて移動する人々(撮影/村樫四郎 『市川市の昭和』いき出版)

 そのため、1961(昭和36)年から真間川の拡幅工事が始まりました。それに伴い、根本橋から菅野橋までの桜並木が伐採されました。



 ただ、桜並木が伐採されていく様子を見た市民が、桜の保存はできないかと行政(おそらく建設省)に訴えかけました。こうして1979(昭和54)年に結成されたのが、「真間川の桜並木を守る市民の会」です。

https://www.ichikawa-sakura.net より


 しかし、1981(昭和56)年の台風24号で7500戸が浸水し、「真間川水系河川激甚災害対策特別緊急事業」として改修工事のピッチが速まってしまいました。

 1982(昭和57)年に桜並木が伐採された後、市民と行政との話し合いが始まったそうです。翌年の第1回目の話し合いから15年の間で、約150回の話し合いの場が持たれたとのこと。

1983(昭和58)年に撮影された改修工事の様子(撮影/吉野章郎 所蔵/千葉県立中央博物館 『市川市の昭和』いき出版)

 そんな中で、大柏川合流点(浅間橋)から国分川合流点(菅野橋)までの区間は、川幅を広げず川底を深く掘る工法が採用され、桜並木の保存区間となりました。


 大柏川合流点から国分川合流点まで。
 そうです、ハイソ真間川です。
 市民の働きかけによって桜並木が残された川辺=ハイソ真間川


 また、国道14号(境橋)から大柏川合流点(浅間橋)までの区間は、拡幅工事後に桜を植栽することが決定し、桜並木の復元区間となったのです。

 建設省は、「河川本来の自然環境の保全・創出や周辺環境との調和を図りつつ、地域整備と一体となった河川改修を行い、良好な水辺空間の形成を図ること」を目的として、昭和62年度から「ふるさとの川モデル事業」を始めました(現在の名称は「ふるさとの川整備事業」)。この事業モデルに、真間川が指定されたのだそうです。




 

 新河川法で、国土保全上、または国民生活上での重要度に応じて、河川は以下のように区分されています。
  • 一級河川 国土交通大臣が指定
  • 二級河川 一級河川を除く河川で、都道府県知事が指定
  • 準用河川 一級河川と二級河川を除く河川で、市町村長が指定
  • 普通河川 一級河川・二級河川・準用河川を除く河川

 水源から河口にいたるまでの本川や支川のまとまりは、「水系」と呼ばれています。
 江戸川も真間川も、水系番号28番の利根川水系。現在の管理については江戸川は国土交通省の江戸川河川事務所、真間川は千葉県の葛南土木事務所(真間川改修課)になっているようです。

※事実誤認がありましたら、ご連絡ください!!

○参考資料
『私たちの真間川』 ※昭和51年に発行され、発行者は京葉市民新聞社、編著者は野口雪雄となっています

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