市川駅南口アーケード街クロニクル(2026年8月3日更新)
2005(平成17)年まで存在した南口アーケード街の話題を中心に、市川駅南口の街並み、そして暮らしと生業の変化をたどっていくのが、「市川駅南口アーケード街クロニクル(旧:市川駅南口アーケード街を巡る時間旅行)」です。
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| 『オール生活』(実業之日本社)1966(昭和41)年1月号 |
雑誌『オール生活』(実業之日本社)1966(昭和41)年1月号で、市川駅南口アーケード街(記事中では「市川駅南口アーケード商店街」)が取り上げられていました。記事で、市川駅北側で、終戦後の闇市の後継としてできた長屋形式の「マーケット」から、市川駅南口アーケード街が派生したことがわかりました。
マーケットとは、道路から敷地へ通路を引き込み、通路に沿って長屋状の木造建物を建て、そのなかに商店を並べた市場状の建物のことである
点在する東京のマーケット──再び都市の資源になりうるか
https://www.10plus1.jp/monthly/2017/09/issue-03.php
誕生当初は路上取引をする露店として、地面の上に茣蓙を敷き、商品を売り出していた。そこから、焼け跡などに残された材料で建設される仮設の建築物であるバラック建築へと転じ、道路に連なるように作られていった。ヤミ市がなされる商業空間の形態は、区別する移動式の『露店』と固定した長屋形式で建築の体裁を整える『マーケット』に言い分けられているRAKU18【特集】破壊と復興 戦後東京のヤミ市に見る市民の力
https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/pdf/raku/RAKU18.pdf
そのため、市川駅北側の闇市、後継の睦会マーケットの歴史もまとめました。
●市川駅北東地区「睦会」クロニクル
https://ichimiraiarchive.blogspot.com/2026/08/blog-post.html
市川駅南口再開発までの歴史年表
※間違いがあれば指摘してください
※写真提供者などの敬称は省略させていただきます
明治~昭和初期 草むら・田んぼから工場へ
1923(大正12)年に関東大震災が発生。
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| 松井天山「千葉縣市川町鳥瞰」 |
1928(昭和3)年に発行された松井天山の「千葉縣市川町鳥瞰」を見ると、田んぼと草むらが広がっていたようで横線で省略されている。
1926 (大正15)年 寶(宝)酒造市川工場(市川1806-1)が設立
当時は芋焼酎のにおいがしていたらしい。
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| 松井天山「千葉縣市川町鳥瞰」 一部改変 |
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| 出典:『カメラが撮らえた 千葉県の昭和』(『歴史読本』編集部 中経出版)、一部改変 |
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| 1947(昭和22)年発行の地図での市川駅南側(出典:今昔マップ) |
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| 出典:1957/03/29(昭32)の航空写真 地図・空中写真閲覧サービス |
1927(昭和2)年に昭和金融恐慌、1930(昭和5)年に昭和恐慌が発生。
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| 市川駅と北越製紙市川工場の専用側線(出典:叡智ヒストリア〈著作権不明〉) |
1939(昭和14)年から1945(昭和20)年まで第二次世界大戦。
1945(昭和20)年の東京大空襲で、多くの被災者が市川市に避難した。
| 1940(昭和15)年頃の市川駅周辺(出典:左は今昔マップ、右は空中写真で国土地理院地図) |
1945(昭和20)年から1947(昭和22)年まで全国各所に闇市が立つ(終戦から1週間後に新宿で発生した闇市が最初)。市川駅では北側に闇市の露店・バラックが広がった。小岩駅の闇市「小岩ベニスマーケット」と、“日本の上海”と呼ばれた船橋駅の巨大闇市の存在感が大きかったため、市川駅や本八幡駅の闇市は小規模だったと類推。
| 戦後80周年記念小展示「戦後を生きる-引揚と闇市の記憶-」ポスター |
1946(昭和21)年8月1日に八・一粛正。GHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づき、内務省主導で闇市の一斉取締り・閉鎖命令が実施。
1959(昭和34)年12月 国鉄市川駅に南口の改札口ができる(市川の都市計画より)
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| 1962(昭和37)年に撮影された宝酒造の「タカラサイダー市川工場」(写真:長谷川明 出典:『市川市の昭和』いき出版) |
1969(昭和44)年5月 国鉄市川駅 高架化・複々線化
→北越製紙市川工場(現北越コーポレーション関東工場市川工務部)への専用側線を廃止
高度成長期 商店街の発達
1970(昭和45)年5月 北越製紙市川工場(現北越コーポレーション関東工場市川工務部)への専用側線があった道が、北越製紙から市川市に売却され市道になる
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1973(昭和48)年と1979(昭和54)年にオイルショックが起こる。
1976(昭和51)年 市川駅南口アーケード街に、新たにアーケードを設置、あるいはアーケードの更新 ※『月刊いちかわ』
→火災が起こるが、狭くて消防車が入れない事態に。消防車や救急車などがスムーズに入ってこられるような、駅前ロータリーを作ることが課題に
| 今も町中に残る、南口アーケード街のお店の看板 |
1977(昭和52)~1997(平成9)年 高橋国雄市長
1977(昭和52)年 市川サンハイツ竣工、東京精鍛工所 機械部門 千葉市川塩浜に移転→駅南公民館、大洲小学校[1979年(昭和54年)開校]
昭和中期 市川駅南口地区再開発へ
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| 出典:『カメラが撮らえた 千葉県の昭和』(『歴史読本』編集部 中経出版)、一部改変 |
1987(昭和62)年 国鉄分割民営化に伴い、市川駅がJR東日本の駅になる
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| 出典:1989/10/20(平1)の航空写真 地図・空中写真閲覧サービス |
平成 バブル崩壊と再開発見直し
1991(平成3)年から1993(平成5)年にかけてのバブル崩壊で、1995(平成7)年には住宅金融専門会社が破綻。
1993年10月17日 ライブハウス市川CLUBGIOで、GLAYのメンバーがX JAPANのYOSHIKIに会う→1994年にメジャーデビュー
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| 化粧が……当時のGLAYはこのような感じだったのかと…… |
JR市川駅の南口広場。駅前ビルの地下にあるライブハウスでコンサートのある日、広場や商店街のあちこちでカラフルなコスチュームで着飾った若い娘の集団が出現する光景を見受ける事がある。
『市川まちかど博物館』(いちかわ・まち研究会 株式会社エピック)
1995(平成7)年 社会経済状況の変化により施設計画の見直しに着手
1997(平成9)~2009(平成21)年 千葉光行市長
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| 1990~2003年頃の周辺図 |
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| 1998~2005年の市川駅南側の地理院地図 |
| 1993年頃の周辺図(出典:市川都市計画市川駅南口地区地区計画) |
1998(平成10)年 市川毛織株式会社(2005年に商号をイチカワ株式会社に変更)市川工場閉鎖
2000(平成12)年 都市計画変更(住宅を中心とした施設計画とする)
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| 出典:黎明期のいちかわTMO講座2.土居浩章 |
2003(平成15)年2月 都市計画変更
2005(平成17)年8月4日 市川駅南口A街区タワー(I-linkタウンいちかわ ザ タワーズ ウエスト プレミアレジデンス) 起工式挙行
「I」には、私の「I」、市川市の「I」、出会いの「I」、愛するの「I」の意味が込められており、私(市民)、市川市、そして様々な人々が「駅前」で出会い、交流(link)し、市川の自然・歴史・文化を継承しながら暮らす、皆様から愛される街を目指していきます。
→2008(平成20)年9月15日にリーマン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻→リーマン・ショック
2009(平成21)年1月 I-linkタウンいちかわ ザ タワーズ ウエスト プレミアレジデンス竣工
2010(平成22)年3月 駅前広場で街開き(事業の完成)
2020年9月7日にwebマガジン『クラナリ』で始まった「市川駅南口アーケード街を巡る時間旅行」シリーズ。
市川駅南口には鉄筋不足で話題となった高層タワーマンションが2008年と2009年に完成したが、それまでは駅前とは思えないほどの寂れ方で、小さなアーケードや飲食店、パチンコ屋があるだけだった。
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| 都市計画マスタープランより |
現在、GoogleフォトやSNSで写真などの資料を募集しています。写真については、撮影者の名前かパブリックドメインであるか、そして撮影日時と撮影したものを記載してください。写真の著作権は撮影者に帰属します。
Googleフォト 写真共有アルバム「市川駅南口アーケード街クロニクル」
https://photos.app.goo.gl/B97kfwdXutmXTfdAAそして、将来にわたって誰でも見られるように、ネット上で年表を更新しているところです。
※写真提供者などの敬称略
■主な参考資料
振興ちば
http://www.chisinkyo.or.jp/pdf/201306/p15_p16_out.pdf

























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