市川と松戸をつなぐ幻の「流山電気鉄道総野線」と「新京成市川線」

  すでによく知られていますが、太平洋戦争までは千葉県の各地に陸軍などに関係する施設が多数ありました。

 津田沼にあった陸軍鉄道第二連隊と、松戸にあった陸軍工兵学校が、線路(演習線)を敷設してできたのが松戸線。津田沼から八柱を経由して松戸まで結ぶ演習線でした。

 戦争が終わると、西武農業鉄道(現在は西武鉄道)が松戸線の払い下げを求めました。

 これに対抗したのが、京成電鉄。そして1946(昭和22)年11月に新会社として設立したのが、新京成電鉄だったのです。京成電鉄に入社した元鉄道連隊関係者らが、連合国軍総司令部(GHQ)などと交渉し、新京成電鉄が松戸線を引き継ぐことになりました。
新京成電鉄(松戸市サイトより)



 鉄道会社同士の抗争(?)は激しかったようで、千葉県内では流山電気鉄道(現在は流鉄)と新京成電鉄も争っていたようです。そのような時期に、千葉県の辺境に当たる市川と松戸をつなぐ「流山電気鉄道総野線」と「新京成市川線」が計画されていたのでした。



※この記事の初出は『クラナリ』2025年9月5日


千葉県の辺境における鉄道会社の抗争の歴史


1947(昭和22)年12月 新京成電鉄新津田沼駅~薬園台駅開業

1949(昭和24)年10月 新京成電鉄が初富駅まで順次延伸

1952(昭和27)年2月 流山電気鉄道(現在は流鉄)が、松戸市の馬橋(まばし)駅から市川方面への延伸を計画し、運輸省に免許申請

○流山電気鉄道総野線(計画)

市川駅~松戸駅~流山駅~野田駅~関宿駅~境駅~三和駅~小山駅
総野線予測ルート(左が当時の地図、今昔マップより)


1953(昭和28)年9月 新京成電鉄が、新京成市川線を運輸省に免許申請

○新京成市川線(計画)

松戸駅~園芸学部駅(松戸市松戸)~上矢切駅~下矢切駅~里見公園駅~国府台学園駅~手児奈駅~国府台駅
新京成市川線予測ルート(左が当時の地図、今昔マップより)



1953(昭和28)年11月 新京成線が京成津田沼駅に乗り入れて京成線と接続

1955(昭和30)年4月 新京成電鉄初富駅~松戸駅開業 →京成津田沼駅~松戸駅が全通

1956(昭和31)年3月 新京成電鉄が柴又駅までの延伸を運輸省に免許申請

1961(昭和36)年2月 流山電気鉄道が路線延伸の申請を取り下げ

1961(昭和36)年4月 新京成電鉄も市川線の申請を取り下げ

1962(昭和37)年7月 新京成電鉄による柴又駅までの延伸を運輸省が認可

○延伸

松戸駅~園芸学部駅~松戸高等学校前駅~柴又駅

 用地買収に苦戦を強いられるも、延伸を模索していたとのこと。

1971(昭和46)年7月 新京成電鉄による柴又駅までの延伸の免許失効 →時間切れ


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 ライターの工藤直通さんが記事に書いていましたが、新京成電鉄が新京成市川線を本気で作るつもりはなかったようだと、当時の地図や、免許申請後の流れを見てもわかります。国府台や真間は陸軍の関係で発展したため用地取得は厳しかったでしょうし、短距離を右往左往する線路というのも、実現性はなさそうです。
 残念なのが、流山電気鉄道総野線。千葉県辺境の縦の人流・物流ができていたはずなので、開通しなかったことが惜しまれます。


■主な参考資料
4月から松戸線になった“新京成線”、本当の終点は「葛飾柴又」だった  度重なる路線の駅の移転はなぜ起きたのか

新京成電鉄、78年の歴史に幕 4月から「京成松戸線」に

「新京成電鉄」がついに消滅!終戦直後の“接待合戦”の歴史とは?
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