市川のナシが通って来た道 中国の山岳地域~シルクロード~日本海~日本~岐阜県大垣市~千葉県市川市千葉街道北側(本八幡が中心)~大町梨街道
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棚栽培がされていないナシの木(高さは20mを超えることも) |
日本で生産されている果物については、日本固有の植物を栽培化したのはクリ(日本栗)やカキぐらいで、大半は中国大陸から渡ってきたものです。ウメやモモ、スモモ、ナシは『万葉集』が編纂される前に、ブドウは鎌倉時代初期に、中国から日本に入ってきたとのこと。
現在、市川市の名産品であるナシも、歴史をさかのぼっていくと、中国西部の地域、言い換えると、中央アジアのカザフスタンと接する新疆ウイグル自治区近辺の山岳地域にたどり着きました。ちなみに、この地域は果樹全般の発祥の地のようです。理由として、厳しい気象条件が植物の遺伝的な変異を引き起こしたからだと考えられています。
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ナシを含め果樹全般の発祥の地は中国西部(地理院地図より) |
※この記事の初出は『クラナリ』2024年12月14日
ナシという植物については、バラ科ナシ属Pyrusに属する二十数種で、果樹として栽培されるものはナシ(ニホンナシ)、チュウゴクナシ、セイヨウナシの3種です。ナシは「なし(無)」で縁起が悪いという人もいて、「ありのみ」と言い換えることもあります。
原産(発祥)の地である中国でのナシの歴史は古く、紀元前1000年頃に編纂された最古の詩歌集『詩経』の晨風篇 (しんぷうへん)にナシの記載があります。
唐の第6代皇帝(712~756年)の玄宗は、宮廷に梨園(なしえん)を設けていました。宮廷楽師や官女をここに集めて、皇帝自ら音楽や舞踏を指導し、役者もやっていたとのこと。日本の歌舞伎界の「梨園(りえん)」の由来は、玄宗だそうです。白楽天が玄宗と妻の楊貴妃についてつづった長恨歌(806年)に「梨花 一枝春帯雨」とありまして、もっぱら観賞用だったと考えられます。
また、実の大きさは、5升(約9リットル)の大きさだった漢代の含消梨 (がんしょうり)など、さまざまでした。
日本でのナシの記録ですが、静岡県静岡市の農耕集落である登呂遺跡からナシの種が見つかったという情報が、ネット上には多々ありました。しかし、登呂遺跡のサイトを見てもナシの記述はありません。
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登呂遺跡サイトより |
そのようなわけでナシの確実な情報は720年に成立した『日本書紀』で、これが最古の文献となります。持統(じとう)天皇 の693年の詔(持統七年三月一七日)で、五穀とともに「桑、苧、梨、栗、蕪菁」の栽培を奨励されていました。
※苧(カラムシ・繊維を取る植物)、蕪菁(アオナ)
758年の正倉院文書、東大寺写経所食口帳(大日本古文書一三)に「梨五斗二升」とあることからも、日本では花よりも実、つまり食べ物として重視されていたことがわかります。
759年から780年にかけて成立したとされている『万葉集』には、次の歌が収載されています。
梨棗 黍に粟嗣ぎ 延ふ田葛の 後も逢はむと 葵花咲く
なしなつめ きみにあはつぎ はふくずの のちもあはむと あふひはなさく
908年の『三代実録』には信濃国 (しなののくに)から「梨」が、905~928年の『延喜式 (えんぎしき)』には甲斐国 (かいのくに)から「青梨子」が献じられた記録がありました。
日本各地にナシの栽培が広まったのは江戸時代で、この時代に「棚栽培」が始まりました。棚栽培では、棚に沿って枝を固定して、果樹の高さを抑えます。戦国時代の医者である永田徳本(ながたとくほん)が、医者なのにブドウの棚栽培を広め、これがナシにも応用されたのです。ナシの木は20mを超える高さがあるため、棚栽培で収穫が楽になりました。
江戸前期の農学者である宮崎安貞が編纂し、1697(元禄10)年に刊行された『農業全書』12 の「巻之八 菓木之類」には、「李(すもゝ)、梅(むめ)、杏(あんず)、梨(なし)、栗(くり)、榛(はしばみ)、柿(柹、かき)、石榴(じゃくろ)、櫻桃(ゆすら)、楊梅(やまもゝ)、桃(もも)、枇杷(びは)、葡萄(ぶだう)、銀杏(ぎんあん)、榧(かや)、柑類(かうるい)、山椒(さんせう)」の17 品目が挿絵付きで収録されています。
江戸時代のナシの産地として有名だったのは、現在の岐阜県大垣市である美濃国大垣です。ここでのナシの栽培法を学び、千葉県に初めて持ち込んだのが、現在の市川市で1742 年に生まれた川上善六です。
1769年に、現在の市川市本八幡の八幡地方で、川上善六はナシの栽培を広めました。その品質の高さから江戸では高級品としてもてはやされて、産地は八幡地方周辺に急速に拡大したのです。
話を日本全国に戻すと、1782年には合計94品種のナシが記録され、接木、棚づくり、剪定(せんてい)法などの記録があり、全国的にナシの栽培が広がりました。
農政家の宮負定雄は1826年に『農業要集』、1828年に『草木撰種記』を刊行しています。
1842(1844、1859など諸説あり)年に刊行された、農学者の大蔵永常(おおくら ながつね)が書いた農業書の『広益国産考』には、「梨を多く作りて、利を得るは、美濃国大垣辺にまさるはなし。いつの頃よりか此の苗を下総国古河(こが)に植え広め作り、江戸に出せしより、古河梨として賞翫せしを、寛政前後に品川、川崎の在に植え広め益すこと、又夥(おびただ)しかりけるよし」という記述があるそうです(古河藩は、現在の茨城県古河市にあった藩)。
このように、江戸時代は農業の研究が盛んで、ナシも果樹の一つとして栽培が広がっていったのでした。
1895(明治28)年前後には、神奈川県川崎市の當麻長十郎のナシ園で「長十郎」と、千葉県松戸市の松戸覚之助の宅地内(ゴミ捨て場という情報も)で「二十世紀」が発見されました。
近年の都道府県別のナシの収穫量割合は、千葉県が12%、茨城県が 11%、栃木県が9%、福島県が8%、鳥取県が6%となっています。
そして、千葉県内の産出荷額は、白井市、市川市、鎌ヶ谷市、船橋市の順番で、市町村別栽培面積では、白井市(234ha、県内比率21%)が最も多く、次いで市川市(208ha、18%)、鎌ケ谷市(150ha、13%)となっています。
一大消費地の東京の隣にあることが、千葉県のナシ収穫量全国1位と関係しているのは間違いないでしょう。
現在、市川市内でのナシの産地といえば、大町梨街道(国道464号線)周辺ですが、明治まで主要な作物はムギだったようです。
明治初期から中期にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」では、大町梨街道の周辺は「松」「畑」と記載されています。
一方、千葉街道(国道14号)北側には、びっしりと「梨」と記載されています。
稲荷木にもナシ畑が広がっていたという記述が『校歌は生きている』(著/吉井道郎 市川市教育委員会)にはありました。1941(昭和16)~1945(昭和20)年の太平洋戦争を機に、ナシやモモなどの果樹類は不要不急の作物とされて伐採され、ムギやジャガイモ、サツマイモへの転作が強要されました。
さらに、太平洋戦争はもちろん、それ以前の大正の関東大震災でも、東京から市川へと避難してくる人がたくさんいたために、千葉街道の北側では急速に宅地化が進み、ナシ畑は住宅へと変わっていきました。
1947(昭和22)年発行の地図では、大町梨街道沿いの集落で、ちらほらと果樹園のマークが見られます。戦時中にナシの伐採を強要された農家の人たちが、大町へと移って、ナシの栽培を始めたのかもしれません。
その後、大町でのナシの栽培が拡大していき、市川市内でのナシ生産は大町が中心になったのだと考えられます。
中国の西部で生まれたナシは
シルクロードでユーラシア大陸の東西へと伝播していき
飛鳥時代ぐらいに日本海を越えて日本に入ってきて、食用として栽培が推奨され
江戸時代に棚栽培が開発されて栽培が盛んになり、岐阜県大垣市の品種が千葉県市川市に持ってこられ、千葉県全域に広まったものの
震災や戦争による市川市の人口増などで千葉街道北側にあったナシ畑は住宅に置き換わり
おそらく本八幡周辺のナシ農家が大町に移転して、現在の大町梨街道に至るのでしょう。
■参考資料
世界大百科事典 ナシ
鳥取二十世紀梨記念館 自然、歴史文化から見る中国ナシ
中国新彊ウイグル自治区における果樹遺伝資源の共同調査プロジェクト(2007 年)
ニホンナシ栽培品種の果形変異 : 地理的分化と歴史的変化
千葉県
市川市
『校歌は生きている』(著/吉井道郎 市川市教育委員会)
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