未来のランドスケープをデザインする その2 東京からあふれ出した人々の受け皿として発展した歴史

 千葉県市川市は、歴史を振り返ると、東京からあふれ出した人々の受け皿として発展してきました。
 しかし今では、少子高齢化で東京からあふれる人が減り、首都圏で人口争奪戦が始まっています。

 今回は、受け皿として発展した歴史、特に高度成長期を振り返ります。

『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』(著/三浦 展 光文社)


 市川市の人口増に大きく影響を及ぼしたのは、鉄道です。

 総武鉄道(1907〈明治40〉年に国有化、今の総武線)の江戸川橋梁が架けられたのは1894(明治27)年。当時は、人々は船を使って川を渡っていました。そして自動車が普及していなかったため、架橋については鉄道が先行していたのです。
 こうして、東京と市川が鉄道でつながりました。

 1928年(昭和3年)に松井天山が発表した鳥瞰図「千葉縣市川町鳥瞰」には、煙を出して江戸川橋梁を渡る蒸気機関車が描かれています。
「千葉縣市川町鳥瞰」

 その後、1923(大正12)年の関東大震災や、1945(昭和20)年に終わった太平洋戦争(第二次世界大戦)がきっかけで、人口が増えたと報告されています。
 国府台の寺院である泉養寺は、関東大震災で被災し、都内からこの地に移転しています。
 晩年を市川で暮らした永井荷風については、1945(昭和20)年の東京大空襲の翌年に、市川に移り住みます。永井荷風が67歳のときのことでした。
 永井荷風を撮影した写真から、現在のJR本八幡駅周辺が自然豊かだったことがわかります。

 以下の地図の青いピンは、JR本八幡駅の位置です。鉄道駅がない頃は田んぼで、千葉街道沿いに住宅が建っていました。 1935(昭和10)年9月1日に開業してから、一気に市街地化が進みます。
 古い地図を見ることで、鉄道駅の開業が人口増につながったことがわかります。

明治36年発行の地図(今昔マップより)


昭和22年発行の地図(今昔マップより)



 1955(昭和30)年頃から1970年代にかけての高度成長期に、東京の人口が増え続ける中、政府は「都心を分散させる」という方針を取りました。
 住宅は不足し、政府もニーズにこたえるべく、東京郊外に集合住宅を建設する政策を進め、民間業者は住宅地を乱開発しました。当初は利便性の高い鉄道駅の近くに住宅地を作っていたのですが、土地が不足すると住宅地に不向きな場所でも開発を進めたのです。

 『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』(著/三浦 展 光文社)には、高度成長期に作成された、市川市内の住宅地のチラシが掲載されています。

『昭和の東京郊外 住宅開発秘史』より

 東市川南平台高級住宅地
 投資最適

 ちなみに、「東市川南平台」という地名は存在しません。
 「南平台町(なんぺいだいちょう)」は、渋谷区にある高級住宅街で大邸宅が建ち並ぶとのこと。昭和30年代に民間の開発業者が造成した住宅分譲地には、「南平台」が多く使われていたようです。

 また、このチラシには「現地案内所 国電市川駅前」と書かれているものの、当時は東京からの近さをアピールするために、見学客を市川駅などで集合させて、バスで遠くまで移動させるケースも珍しくありませんでした。

 本八幡駅北エリアの梨風苑や姫宮団地は、高度成長期に造成された住宅地です。





 1969(昭和44)年には、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線で東陽町~西船橋が開し、行徳駅と原木中山駅ができて、下妙典信号所が設置されます。
 行徳エリアや南行徳エリアは、江戸時代の塩業や舟運で人口がそれなりに多かったのですが、妙典エリアについてはぬかるみの多い地域でした。

東西線の橋台(メトロアーカイブより)

 そのため、2000(平成12)年に帝都高速度交通営団東西線の妙典駅が開業したことで、一気に宅地化が進みました。


 熱狂的なマイホームブームについては、1973(昭和48)年に起きたオイルショックなどによって収束を迎えます。
 そして50年ほどたった今、「空き家問題」が深刻化しています。
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