妙典駅を巡る時間旅行 その3 東西線とともに発展した妙典駅周辺と、幻に終わった成田新幹線

 まず、成田新幹線について、詳しくは以下を参照してください。『クラナリ』の今回の記事も、かなり参考にしているとともに、文章を引用しています。 

■東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~ 
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-da2474.html  

 ネットにはこんな文章もあるのですね。内容も文章表現も非常に素晴らしくて、驚きました。子どもたちに読ませて、「文章とは、このように自分でよく調べてから書くんだよ」「誰かが書いたことを、さも自分が知っているかのように書くものではないんだよ」と伝えたいほど。

 関連記事も紹介しておきます。

■「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた 
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html 
■成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~ 
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-8bc927.html 


  ここからが本題。
  1969(昭和44)年3月29日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線(以下、東西線)東陽町~西船橋が開業しました。
  その2年後の1971(昭和46)年に、東京と新東京国際空港(現・成田国際空港)を結ぶ成田新幹線の整備計画が決定しました。
  計画を作った日本鉄道建設公団(以下、鉄建公団)は、1964(昭和39)年に設立された特殊法人です。2003(平成15)年に運輸施設整備事業団と統合されて、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構となりました。

  市川市議会でのやりとりや運輸省の報告書によると、成田新幹線は市川市内で東西線より50m海寄りを通るように計画されていたようです。
成田新幹線が計画されたルート(青色のライン、今昔マップより一部改変)

 上の地図は左が1977(昭和52)年で、右が現在です。

  鉄建公団の計画発表は突然のことで、地域住民が困惑し動揺していたそうです。そして、一部では、激しい反対運動が繰り広げられたとのこと。
 成田新幹線は、市川市内を通り抜けるだけで、地元住民には何のメリットもありません。その上、当時は東海道新幹線の騒音・振動が社会問題になり、訴訟も提起されていました(「東海道新幹線騷音振動侵入禁止等. 請求事件」)。

  成田新幹線と同様、新東京国際空港の建設の際にも、大いにもめました。「三里塚闘争」と呼ばれています。 
 1966(昭和41)年に始まり、学生運動なども関係して、警官3人・建設反対派1人が死亡するなど、まさに「闘争」でした。もめた理由は、やはり、国が地元住民に説明をせず、意見など無視して、勝手に計画したからです。
 共同通信のサイトに、三里塚闘争の当時の写真が多数あります。ヘルメットをかぶり、竹やりを持って、機動隊員と対立している割烹着・モンペ姿の女性の写真などから、当時の凄惨な様子が伝わってきます。
■成田空港建設反対「三里塚」
https://imagelink.kyodonews.jp/pick?id=57

  ちなみに、1978(昭和53)年5月20日に新東京国際空港は暫定的に開港しましたが、その後も反対運動は継続していました。

  一方、成田新幹線の整備計画については、鉄建公団と日本国有鉄道(国鉄)の対立や東京都・千葉県の知事たちの思惑も絡み、うまく進展しません。また、江戸川区を中心に地元住民の反対が激しくて用地買収が進まず、計画は失効しました。
  これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。
  約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。
  その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。 
 
 この文章からも、東西線とともに妙典駅の周辺が発展してきたとわかります。というよりも、発展するように、あらかじめ計画されていたのです。
 
 以下は、1970(昭和45)年に撮影された東西線から南側の航空写真と、土地区画整理事業の図面です。まっすぐに道路が走り、新たなまちづくりが進められていることがわかります。
1970年の航空写真(国土地理院サイトより

換地図(市川市の土地区画整理事業より)

  せっかく土地区画整理事業を進めてきたのに、いきなり新幹線の高架を作るなど、地元住民にはあり得ない話だったに違いありません。

■妙典駅とまちづくりの歴史年表 ※間違いがあれば指摘してください


1962(昭和37)年 東京復興都市計画高速鉄道の5号線が、中野~高田馬場~飯田橋~大手町~茅場町~東陽町を経て船橋方面へ向かう路線として、都市交通審議会答申で示される。
東西線の建設風景(メトロアーカイブより)

東西線の建設風景(市議会だより 2014年(平成26年)1月1日号より)

東西線の橋台(メトロアーカイブより)

旧江戸川橋に架かる第一江戸川橋梁を渡る5000形車両(メトロアーカイブアルバムより)

1967(昭和42)年の地図(青いマークが東西線、今昔マップより)

1969(昭和44)3月29日 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線東陽町~西船橋開業時に、行徳駅、原木中山駅ができる。下妙典信号所が設置される。
1970(昭和45)年の航空写真(国土地理院サイトより

1971(昭和46)年 日本鉄道建設公団が、東京と新東京国際空港(現・成田国際空港)を結ぶ成田新幹線の整備計画が決定。突然の発表に、地元住民が困惑し動揺。
成田新幹線が計画されたルート(青色のライン、今昔マップより一部改変)

1972(昭和47)年に開通した新行徳橋(市議会だより 2014年(平成26年)1月1日号より)


市川歴史博物館で撮影

1977(昭和52)年の地図(青いマークが東西線、今昔マップより)

1978(昭和53)年 帝都高速度交通営団が『東京地下鉄道東西線建設史』を発行。
※メトロアーカイブで『東京地下鉄道東西線建設史』が読める。
https://metroarchive.jp/ebook_tozaisen/index_h5.html#%E8%A1%A8%E7%B4%99

1981(昭和56)年 帝都高速度交通営団東西線に南行徳駅ができる。

1983(昭和58)年 日本鉄道建設公団が、運輸省鉄道監督局国有鉄道部長に成田新幹線の凍結申請。

1986(昭和61)年 東行徳商店会ができる。アメリカ西海岸をイメージしたまちづくりを目指し、6つの通りが「シンボルロード」として、マリンロード・ガーデナーアベニュー・ハーバーロード・ハッピーロード・カリフォルニアロード・サンセットストリートと名づけられる。

現在のカリフォルニアロード


1986(昭和61)年 東西線沿いの風景(『街づくりの軌跡』  より)

1987(昭和62)年の地図(青いマークが東西線、今昔マップより)

1988(昭和63)年 妙典土地区画整理組合による市川市妙典土地区画整理事業が始まる(平成12年度まで)。

1991~1993年 バブル経済

1992(平成4)年 国土交通省によって、高規格堤防整備を行われる(平成10年度まで)。

高規格堤防特別区域(国土交通省江戸川河川事務所サイトより)

1994(平成6)年 妙典地区計画の都市計画決定。

1999(平成11)年 市川妙典サティ(現在はイオン市川妙典店)開業。
妙典タウンセンタービル(市川妙典サティ)(株式会社フジタ実績紹介サイトより)


2000(平成12)年 交通広場の夜景(『街づくりの軌跡』  より)

1999(平成11)年の地図(青いマークが東西線、今昔マップより)

2000(平成12)年 帝都高速度交通営団東西線に妙典駅ができる。商業施設「M'avみょうでん」がオープン。


2004(平成16年)年 都高速度交通営団が民営化されて東京地下鉄が発足したことに伴い、東京メトロ妙典駅と名称が変わる。

東京メトロ東西線妙典駅北口

東京メトロ東西線妙典駅南口



■参考資料
東京メトロ
メトロアーカイブアルバム 東西線
東京の地下鉄建設の歴史年表
昭和日記
Wikipedia 妙典駅
国土交通省 江戸川河川事務所 事務所の取り組み

市議会だより 2014年(平成26年)1月1日号
東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~ 
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-da2474.html 
「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた 



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