大雨が降ると京葉道路の周辺が冠水するのはどうしてなんだ問題
〇道路冠水による交通規制
現在、以下の区域において交通規制を実施中です。通行にはご注意ください。市川南3丁目2番地先 アミーズボーカルスクール市川校南側道路なお、以下の区域は交通規制を解除しました。1 鬼高3丁目京葉道路北側側道2 田尻3丁目京葉道路南側側道
上の市川市公式X(2026〈令和8〉年6月3日ポスト)からも、京葉道路の周辺は冠水しやすいとわかります。原木地下道(原木1丁目475番地先)では、ゲリラ豪雨などで交通規制が頻繁に行われてきました。以下のXのポストでは、フロントガラスまで沈んでいる車が写った、衝撃的な写真が投稿されていました。
京葉道路の周辺はどうして冠水しやすいのかを掘り下げていくと、どうやら実際に工事で掘り下げられた土地だったのではないかと推測しました。
まずは、京葉道路の歴史をたどってみましょう(京葉道路は国道14号ですが、ここではすべて京葉道路と表記します)。
人口が増えた上、東京都へと集中した高度成長期に、人口を千葉県など周囲に分散させるために新都心や副都心が計画されました。
当時、東京都と千葉県を結んでいたのは国道14号(千葉街道)や国道16号で、道が狭く、いつも渋滞状態していました。
そんなことから、交通量が増加した国道14号のバイパスとして、京葉道路が整備されることになりました。まずは一之江から船橋までが整備され、臨海部に沿って船橋から幕張まで、その後、内陸部へ向かって幕張から殿台町まで延伸しました。
京葉道路の年表
1960(昭和35)年 一之江~船橋 開通
1961(昭和36)年 道路法に基づく日本初の自動車専用道路に指定
1964(昭和39)年 船橋~花輪 開通
1966(昭和41)年 花輪~幕張 開通
1969(昭和44)年 幕張~殿台町 開通
1971(昭和46)年 一之江~船橋 車線拡幅、首都高小松川線と接続、東関東道(成田方面)と接続
1979(昭和54)年 千葉東JCT~浜野町開通、千葉東金道路と接続
1980(昭和55)年 京葉道路 全線(全長 36.7 ㎞)開通
1982(昭和57)年 東関東道(東京方面)と接続
高度成長期以前の道路舗装は、大半が砂利でした。それが京葉道路ではコンクリート舗装で、日本道路公団が輸入した大型スタビライザ(重機)を使って、道路を舗装する材料の強度を増す処理が行われました。アスファルトで舗装されていなかったのですね。 舗装材料にアスファルトを混ぜ合わせる「アスファルト安定処理」路盤は、1962(昭和37)年に京葉道路(2期)で試験的に施工されたのが最初でした。
1950年代に撮影されたと思われる、江戸川大橋仮設桟橋(作業用に一時的に設けられる桟橋)の写真を見ると、桟橋が木製。作業していると思われる船も、なんだか心もとない感じです。
原木インターチェンジの当時の写真が衝撃で、「ICはなく平面交差、中央分離帯もない」と注釈がついています。交差点には信号もなく、一般道路と同じ高さで、水田の中をまっすぐに京葉道路が通っています。通過する自動車の台数も、さほど多くなかったのでしょう。今とは大違いです。
京葉道路が白く見えるのはコンクリート舗装だからで、交差している一般道路は砂利だと考えられます。
京葉道路の交通量が増えて、側道や立体交差が必要になってきたときに、おそらく、周囲を掘る作業が行われたのでしょう。一度作ってしまった京葉道路をかさ上げするのは困難だからです。典型例が、原木アンダーパスです。
京葉道路周辺の標高を確認すると、側道と思われる部分のいくつかがゼロメートル地帯、つまり海抜0メートル未満になっています。
さらに原木インターチェンジの北側には下総台地があり、高低差があることから大雨が降ると京葉道路周辺に水が集まってくると考えられます。
■主な参考資料
第209号 市議会だより 2014年(平成26年)1月1日
《高速道路50年の歩み》第1章 戦後の道路事情と有料道路制度の確立
日本初の自動車専用道路から始まった千葉の大動脈
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