市川市をこよなく愛した、腸内細菌の世界的研究者の光岡知足博士と国府台の森


国府台の森

 「私はね、市川で死にたいと思ったいるんですよ。もう、その準備は終えています」

 JR市川駅中央口のすぐ近くにある喫茶店のコーヒーレストで、光岡知足(みつおか・ともたり)博士はゆっくりと、穏やかに語っていました。2016年のことです。

コーヒーレスト


 腸内細菌研究の第一人者で東京大学名誉教授、理化学研究所名誉研究員だった光岡博士に私は雑誌の取材を申し込み、その取材の場所として指定されたのがコーヒーレストでした。光岡博士も編集者の私もライターも、3人とも市川市在住という非常に珍しい取材でした。だから冒頭のことを光岡博士は口にしたのでしょう。市川で育った光岡博士は、市川をこよなく愛していました。

光岡知足博士(腸内細菌学会より)





 光岡博士は、腸内細菌を人間社会にたとえて、「善玉菌」「悪玉菌」「日和見菌」という言葉を使ったことで知られています。光岡博士を「知足」と名づけたのは、俳人の父だったとのこと。光岡博士の言葉のセンスは父譲りなのかもしれません。

 また10代の頃にバイオリン演奏を学び、「市川交響楽団ではコンマスを務めたこともあったんですよ」と、とても楽しそうに話していました(コンマスとは「コンサートマスター」の略で、オーケストラのまとめ役)。 

 研究の道に進んだきっかけは、国府台の森を散策しているときに、突然、次の言葉が降りてきたからだと話していました。


人はそれぞれ容姿も性格も能力も、生まれた環境も時代も違う。しかし、それは生まれながらに与えられたものであり、それぞれその運命を受け入れて生きていくしかない。不平等や不公平に感じることがあっても、それに耐え、自分の個性を伸ばし、他人の個性は尊重する。そうやって将来の夢に向かって真っ直ぐに生きていくことこそ人生である……。


 私たちの取材の際にも、この体験について光岡博士は「啓示」と話し、その後をを決めたのだと語っていました。
 また、バイオリンを演奏し、音楽を愛してきたことも、研究におけるひらめきにつながったのだそうです。
 そして20年ほどかけて、腸内細菌の培養法や同定法を確立して、1970年代に腸内細菌学の樹立します。
 理化学研究所での光岡博士の研究グループは“光岡学校”と呼ばれたそうで、国府台での啓示が大きく影響していることがわかります。

西独ベルリン自由大学から帰国した光岡知足のもとに、大学や企業から多くの研究者が集まってきた。いわゆる“光岡学校”だ。ここで文字通り産官学の共同研究が開始された。このときの研究室のルールは、理研の所員も研究生も、不正な行為、狡猾な行動、強圧的な態度は禁止し、研究生は理研の職員と差別することなく平等に処遇し、互いに助け合いながら、自由に振る舞ってもよいことであった。

 その業績が評価されて、世界最高峰の国際賞であるメチニコフ賞などを受賞した光岡博士は、2020年12月に90歳で永眠しました。
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