江戸川は、いつから「江戸川」と呼ばれるようになったのか(2026年9月29日更新)

 

 江戸川は、江戸時代に人工的に作られた川です。その誕生には、1594(文禄3)年に始まった「利根川東遷(とねがわとうせん)」が関係しています。利根川東遷は60年以上もかかった河川改修事業で、これによって利根川の本流は銚子を通って太平洋に流れ込むことになったのだそうです。

 利根川東遷の目的については、その時期その時期によって変わっていったようです。最初から「よし、利根川を太平洋へ!」とは思っていなかったとのこと。

 1821(文政四)年に成立した『葛西志』(著:三島政行)の記述で、現在の千葉県野田市関宿江戸町の地名が、「江戸川」の由来という可能性が出てきました。しかし、一般的には広まらず、地図では「利根川」と表記されるのがメジャーでした。

クラナリ(2021年5月27日『クラナリ』初出、2025年6月14日「荒川西遷」「2本存在した江戸川」追記、2026年1月22日「河川法改正で、江戸川放水路が『江戸川』に」追記、2026年9月5日江戸川が市川と呼ばれていたことなどを追記)


○利根川東遷前

 江戸川は「太日河(ふといがわ)」「ふとゐがは」と表記されていました。

 平安時代初期の835(承和2)年(835年)に出された太政官符(だいじょうかんぷ/だじょうかんぷ)という公文書に、「下総国太日河」という記述がありました。
太政官符(承和二年六月)
 ……応造浮橋、布施屋拝置渡船事……(中略)……下総国太日河四艘元艘今加二艘……(中略)……右河等崖岸広遠不得造橋仍増件船云々
江戸川|江戸川区立図書館/デジタルアーカイブ
https://adeac.jp/edogawa-lib/text-list/d100030/ht091010

 有名なのは、平安時代の1020年に成立した『更級日記』での記述です。
そのつとめて、そこをたちて、しもつさ のくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとの わたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟 にてかつがつ物などわたす。

 鎌倉時代末期の1300年(正安2年)に成立した『吾妻鏡』の治承(じしょう)4年10月2日条にも、江戸川が登場します。治承4年は、平安時代末期の1180年です。
武衛、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。精兵三万余騎に及び、武蔵の国に赴く。

「常胤・広常らの準備した船で、大井・隅田の両河を渡り、武蔵を経て相模に進み」

 『吾妻鏡』で「大井」と表記されていますが、個人的には、点の打ち忘れで「太」が「大」になったと推測しています。

 そして、なんと室町時代には、江戸川が「いち河」「市川」と表記されていたのです。

 南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記(ぎけいき)』だと、江戸川が「いち河」でした。「ぢせう四年」は治承4年を指しています。
ぢせう四年九月十一日、むさしとしもつさのさかいなる、まつどのしやう、いち河といふ所に付給ふ 



 室町時代後期の連歌師(れんがし)である宗長(そうちょう)の紀行文『東路(あずまじ)のつと(東路の津登、「東国の土産話」という意味)』は、1509年の成立です。ここでの記述では「市川」でした。
此処は炭薪などまれにして、芦(あし)を折りたき豆腐をやきて一盃をすすめしは(略)市川・隅田川ふたつの中の庄也、大堤四方にめぐりて、おりしも雪ふりて、山路を行ここち侍りし也

中世の東京低地を流れる川で、現在の江戸川と古い隅田川の間に葛西御厨(伊勢神宮の荘園の一部)があった(出典:葛飾区史)

 『小弓御所様御討死軍物語(おゆみごしょさまおんうちじにいくさものがたり)』は、室町(戦国)時代の1538(天文7)年に起きた第一次国府台合戦と、小弓公方・足利義明の討死を描いた軍記です。
利根川の流れの末、市川と申す左手に當つて、國府の臺と申す山あり。彼の山と申すは、昔、日本武の皇子東の夷を御退治の後、(略)

隅田川の水上猿が股といふ所より流れ、わたり分れて市川、中川、淺草川とて、三筋四筋の大川、潮の滿干に渡なし。淺草川に船橋を架け、市川・中川は潮の滿干に渡ありとは申せども、猿が股へ差し上り三十餘里を打ち廻り、在々所々を放火あるべき評談し(略)
『房総叢書 : 紀元二千六百年記念 第2卷 軍記』紀元二千六百年記念房総叢書刊行会

東京低地の中世頃の地形 (久保,1994)(出典:河川と平野の地形からみえること─利根川・荒川下流低地を例に)

 江戸時代初期に成立したとされる「下総之国図 」だと、「利根川」と表記されていて、「渡 市川」と書かれているところは渡し船が出ていたと推測します。つまり、市川は地名となっていました。

下総之国図 (出典:船橋デジタルミュージアム、一部改変)


○利根川東遷 事業の進展(1594~1654年)

 以下の図は、およそ1000年前の川の様子を示しています。
出典:川の歴史

 当時の土木工事は、もちろん人力。現代よりもはるかに危険な作業が多く、時間がかかったに違いありません。

 利根川東遷は、下の図のように、少しずつ進められていったようです(利根川の東遷より。図は埼玉県立文書館保管、田口栄一氏蔵)。

出典:利根川の東遷


 同時に行われたのが、荒川西遷。利根川と合流していた荒川(元荒川)の流路を、西側にある入間川に流れ込ませてから、下流を隅田川にして最終的に東京湾に流れ込ませました。

 さらに、徳川家康が神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、地形を変えてしまいます。
 東京都三鷹市にある井之頭池などから江戸市中へと上水が引かれて、上流は神田上水、現在の江戸川橋駅周辺を流れる中流は「江戸川」、もともと神田山があったところから下流は神田川と呼ばれるようになりました。
 神田上水については、1596年~1615年に整備され始め、1629年頃に完成したといわれています。ということは、1629年頃には「江戸川」が存在していたと考えられます。




○利根川東遷後

 1749(寛延2)年に成立した『葛飾記』だと、呼び名が渋滞していました。
利根川の末を葛飾の郡にて、かつしか川といふ、又太井川とも文巻川ともいへり。真間の岸の辺をからめき川ともいふ、則今の市川なり。

 1821(文政四)年に成立した『葛西志』(著:三島政行)では、現在の江戸川の上流に「江戸町」というところがあって、江戸川上流は「江戸川」と呼ばれていたようです。

利根川
國府臺の下を流るる利根川は、隅田川にもおとらぬ大河なり、此川は中古は太井川ともいえり、万葉の仙覚抄に、葛飾郡の中に大河あり、ふとゐという、河の東を坂東郡といひ、河の西をは葛西郡というと是なり。又葛飾名所記と云書に、利根川の末を葛飾郡にてかつしか川といふ、又太井川とも文巻川ともいへり、眞間の岸の邊をからめき川ともいふ、俗に坂東太郎と云ともみえたり、今その水元を推に、上野国利根郡の山中富士原といふ處より流れ出。

(中略)

是太井文巻坂東太郎等の異名ある流れなり、此川関宿にて江戸町といふ處を歴るにより、今は江戸川とも呼べり。或云、此川常陸下総上下野州より江戸通船の筋なれば江戸川の名は出来しと、されど此江戸川といふ名は最近き比よりの唱とみえて、正保元禄改訂の地図には、みな利根川としるせり。
『葛西志』66ぺージ~

 「江戸町」は、現在の千葉県野田市関宿江戸町と考えられます。
千葉県野田市関宿江戸町(出典:Googleマップ)




 1835~1838(天保6~9)年に作成された「天保国絵図」には、東京湾に注ぐ河川、つまり今の江戸川が「利根川」という名前で載っています(国立公文書デジタルアーカイブより。海の上のところに「利根川」)。

出典:国立公文書デジタルアーカイブ

 江戸時代後期(おそらく天保年間)に成立したとされる「成田香取鹿島息栖細見繪図」も「とね川」でした。
出典:船橋市デジタルミュージアム

 太日川という呼び名は消えてしまったようですね。

 そして、いつ、誰が作成したのかが不明な「江戸川縁領々地図」(野田市立図書館 電子資料室 所蔵絵図)には「江戸川」と表記されていました。「西葛西領」といった呼び方から、江戸末期と推測。なお、埼玉県幸手市役所に勤務していた原太平氏は1845(弘化2)年以降の作成と推測していました。
 さらに、地図上に東西南北の表示があります。この表示について調べると、嘉永年間(1848~1855年)に作られた「江戸切絵図」と共通しています。
 
「江戸川縁領々地図」(出典:野田市立図書館 電子資料室 )

江戸川の上流にあった「江戸町」(出典:「江戸川縁領々地図」、一部改変、野田市立図書館 電子資料室 )


 また、1855(安政2)年に赤松宗旦が執筆した『利根川図志』に収載されている地図では、「江戸川」でした。
出典:Wikipedia
出典:『あびこ版新編利根川図志』 (我孫子市史叢書)




 以上のことから、1839~1855年ぐらいに「利根川」から「江戸川」に名前が変更されたと推測できます。

 1896~1909年の地図だと「江戸川」と表記されています。
出典:今昔マップ


○現在

 1916(大正5)~1920(大正9)年に江戸川放水路が開削されました。当時の行徳町では、東京ドームの約34個分の土地(160町歩)が買収され、大和田の全集落が移転させられました。
 工事が始まった翌年に、台風で行徳地域から総武線沿線までが浸水し、行徳の塩田は壊滅しました。
 
 工事はやっぱり人力で、写真の右側にトロッコを押している人の姿があります。


出典:江戸川改修100周年パンフレット

 同時期に、江戸川の上流でも工事が行われていました。1918(大正7)年、庄内古川には新しい流路ができました。そして庄内古川がつながる先は、江戸川から古利根川(今の中川)に切り替えられました。
 つまりは、江戸川の下流だけでなく、上流も水路が変更されていたのです。



 なお、都内を流れていた「江戸川」は、1965(昭和40)年施行の河川法改正で、神田川へと名前が変わりました。つまり、1965(昭和40)年以前は、2本の江戸川があったということになります。
 そして同じく河川法改正でこの年、新しい江戸川放水路が「江戸川」、元の流れは「旧江戸川」と呼ばれるようになりました。

 現在の江戸川は、茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、下流では旧江戸川と江戸川に分かれて東京湾に注ぎます。

 江戸川の流域は自然豊かではありますが、歴史をたどると自然物ではなく、人工的に作られた川なのです。
出典:川の歴史

 
■参考資料
江戸川河川事務所ホームページ

利根川上流河川事務所ホームページ
https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00185.html

国立公文書館デジタルアーカイブ

『論集 江戸川』 「論集 江戸川」編集委員会

国土交通省 江戸川の歴史
Powered by Blogger.