江戸川は、いつから「江戸川」と呼ばれるようになったのか問題(2025年6月14日「荒川西遷」「2本存在した江戸川」追記)
江戸川の誕生には、1594(文禄3)年に始まった「利根川東遷(とねがわとうせん)」が関係しています。利根川東遷は60年以上もかかった河川改修事業で、これによって利根川の本流は銚子を通って太平洋に流れ込むことになったのだそうです。
利根川東遷の目的については、その時期その時期によって変わっていったようです。最初から「よし、利根川を太平洋へ!」とは思っていなかったとのこと。
○利根川東遷前
江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていて、その太日川の西側を利根川が流れていました。以下は、およそ1000年前の川の様子(川の歴史より)。
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川の歴史より |
○利根川東遷 事業の進展(1594~1654年)
もちろん、当時の土木工事は人力。現代よりもはるかに危険な作業が多く、時間がかかったに違いありません。
利根川東遷は、下の図のように、少しずつ進められていったようです(利根川の東遷より。図は埼玉県立文書館保管、田口栄一氏蔵)。
同時に行われたのが、荒川西遷。利根川と合流していた荒川(元荒川)の流路を、西側にある入間川に流れ込ませてから、下流を隅田川にして最終的に東京湾に流れ込ませました。
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利根川の東遷より |
さらに、徳川家康が神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、地形を変えてしまいます。
東京都三鷹市にある井之頭池などから江戸市中へと上水が引かれて、上流は神田上水、現在の江戸川橋駅周辺を流れる中流は「江戸川」、もともと神田山があったところから下流は神田川と呼ばれるようになりました。
神田上水については、1596年~1615年に整備され始め、1629年頃に完成したといわれています。ということは、1629年頃には「江戸川」が存在していたと考えられます。
○利根川東遷後
1835~1838(天保6~9)年に作成された「天保国絵図」には、東京湾に注ぐ河川、つまり今の江戸川が「利根川」という名前で載っています(国立公文書デジタルアーカイブより。海の上のところに「利根川」)。
国立公文書デジタルアーカイブより |
太日川という呼び名は消えてしまったようですね。
そして、いつ作成されたのかが不明な「江戸川縁領々地図」(野田市立図書館 電子資料室 所蔵絵図)には「江戸川」と表記されていました。「西葛西領」といった呼び方から、江戸末期と推測。
さらに、地図上に東西南北の表示があります。この表示について調べると、嘉永年間(1848~1855年)に作られた「江戸切絵図」と共通しています。
ということは、1839~1855年ぐらいに「利根川」から「江戸川」に名前が変更されたと推測できます。
○現在
1915(大正4)年に江戸川放水路が開削されました。工事はやっぱり人力で、写真の右側にトロッコを押している人の姿があります。
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江戸川改修100周年パンフレットより |
現在では江戸川放水路が「江戸川」、元の流れは「旧江戸川」と呼ばれています。以下は、現在の川の様子(川の歴史より)。
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川の歴史より |
なお、都内を流れていた「江戸川」は、1965(昭和40)年の河川法改正で、神田川へと名前が変わりました。つまり、1965(昭和40)年以前は、2本の江戸川があったということになります。
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