江戸川の「江戸」は何を指しているのか

江戸川の上流にあった「江戸町」出典:「江戸川縁領々地図」、一部改変、野田市立図書館 電子資料室


 江戸川の「江戸」は、何を指しているのでしょうか。

 「江戸」探しを始めたところ、諸説あり過ぎでした。歴史の素人がまとめられるのかが心配ではありますが、ひとまず、取り組んでみることにします。




 江戸東京博物館によると、「江戸」というワードが最初に登場したのは、『吾妻鏡』とのこと。『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した歴史書​で、1180~1266年の出来事が記録されています。この本に登場する「江戸太郎重長」という武将の名前の中に、「江戸」があります。

 江戸太郎重長に関する記述については、コトバンクと港区とで少し違っています。
コトバンク:今の北区に江戸という地名の場所があった
港区:今の千代田区に江戸という地名の場所があった

○コトバンク
関東平氏秩父氏の一流で,武蔵国豊島郡(東京都北区一帯)江戸郷を名字の地とする在地領主。通称太郎。父は重継。

○港区 第3節 秩父平氏流江戸氏の広がり
 平安時代末期から鎌倉時代・南北朝時代を通じて室町時代に至るまで、港区域は、江戸氏の勢力圏でした。江戸氏は、秩父平氏の一族で、武蔵国江戸郷(現在の千代田区)を名字の地としました。源頼朝に従った「八カ国の大福長者」江戸太郎重長(えどたろうしげなが)が有名です。江戸氏は、豊島郡から荏原(えばら)郡周辺まで勢力範囲を拡げ、飯倉や桜田・蒲田など港区周辺の地名を名乗っています。

 ただ、鎌倉時代の1261年に、江戸太郎重長(江戸長重)から鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に送られた書状「江戸長重譲状」に、「武蔵国豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」と記述されているそうです。つまりは、武蔵国の中の豊嶋(コトバンクでは豊島)郡にある江戸郷に前嶋村があったわけで、「今の北区に江戸という地名の場所があった」と考えるのが妥当ではないでしょうか。

 当たり前の話ではありますが、江戸は「江」と「戸」の組み合わせです。
 「江」については、川や海、湖、堀などの呼び名。
 「戸」は門の片方の扉を表す象形文字で、戸口、小屋、家、そして行政上の単位(戸籍など)などを意味するようになりました。また、平安時代後期には、牧場の木戸のあった場所を「戸」と名付けたとのこと。

 江戸、つまり東京湾の沿岸の地形は、徳川家康によって、大きく変えられました。それ以前の、中世の地形は以下のとおりだったと推定されています。
東京低地の中世頃の地形 (久保,1994)(出典:河川と平野の地形からみえること─利根川・荒川下流低地を例に

 この図に、人力とAIで色を付けてみました。
東京低地の中世頃の地形 (久保,1994)に人力で色を付け、AIで色ムラと漢字を修正


 「武蔵国豊嶋郡江戸郷」という地名ができた頃は、今の荒川は「入間川」で、流路も異なっていました。「江」については、「入り江」のように、特に入り組んだ水域に使われていたため、入間川が「江」だったのかもしれません。


 ここで、冒頭で紹介した「江戸太郎重長」という武将、つまり「江戸」というワードを日本の歴史に最初に登場させた人物について見ていきましょう。

 桓武天皇の子孫で平の姓を授けられたのが、桓武平氏。あの平将門も、桓武平氏の一人です。

 埼玉県秩父市には、皇室に馬を提供する牧場「秩父牧」が、遅くとも平安時代中期の903年にはあったとされています。
 秩父牧を本拠として発展した桓武平氏が、秩父氏。牧場があっただけに騎馬軍団を組織して、武蔵国の各地に進出したようです。
 その一人が、江戸太郎重長こと江戸重長。父親の秩父重継が、秩父牧から武蔵国豊嶋郡江戸郷に移り住んだことから、江戸氏を名乗るようになったと推測できます。
 江戸重継(秩父重継)が、武蔵国荏原郡桜田郷に館を建て、これが後に江戸城となります。

 江戸氏については、南北朝時代の1355~1368年に武蔵国で散発した平一揆の乱で没落していったようです。

 江戸重継の館があった場所には、室町時代に活躍した武将の太田道灌(1432-1486年)によって、1457年に江戸城が築かれました。同時に、当時に存在した平川の流路が変えられ、流れ込む先が日比谷入江から隅田川に切り替えられました。

 現在の江戸川の上流で千葉県野田市関宿江戸町の辺りに、1821(文政4)年頃に「江戸町」がありました(詳しくは、江戸川は、いつから「江戸川」と呼ばれるようになったのか問題参照)。
千葉県野田市関宿江戸町(出典:Googleマップ)

 いつ、なぜ江戸町と名づけられたのかは不明ですが、この地域が重視されるようになったのは、1590(天正18)年に徳川家康が関東入国した後だと考えられます。家康の異父弟、つまり譜代大名の松平康元を下総国関宿に統治させたからです。これが関宿藩の始まりです。

 言い換えると、中世まではさほど重視された地域ではなかったのではないかと。
 江戸城防衛の重要拠点、さらに利根川水運の中継地点だったことから、江戸時代に入ってから「江戸町」と呼ばれるようになったと推測します。

 江戸時代の初めは利根川と呼ばれていた川が、利根川東遷事業の後で上流の江戸町から名前を取って江戸川と呼ばれるようになり、江戸時代の終わりには下流も江戸川と呼ばれ、1932(昭和7)年に3町4村が合併して江戸川から名前を取って江戸川区が誕生したことになります。

 江戸川の「江戸」は上流にあった江戸町を指していていて、江戸川区の名前のルーツは、東京都の旧称である江戸ではなく、千葉県野田市関宿江戸町にあるといえそうです。
江戸川の上流にあった「江戸町」出典:「江戸川縁領々地図」、一部改変、野田市立図書館 電子資料室



■主な参考資料
Ⅱ章 古代・中世の江戸

利根川の東遷、荒川の西遷

荒川を知ろう
すでに鎌倉時代には、元荒川筋の鴻巣市と吹上町(現、鴻巣市)の境界付近に「箕田堤」「太田庄堤」、熊谷市付近の荒川左岸に「熊谷堤」などがあり、幕府が越辺川と都幾川合流点の堤防を修理したことや、室町から安土・桃山時代にかけては後北条氏が、川島町伊草の入間川と、熊谷・鴻巣市周辺の元荒川筋に堤防を築いたことが残されています。いずれも江戸時代以前の河川改修は小規模で“荒川の流れ”そのものに手をつけることはなかったようです。

【南魚沼・湯沢の魅力】関興寺(かんこうじ)

「戸(のへ)」のつく地名

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 神田川

川から見る東京

古地図から読み解く江戸湊の発展(その1)

Wikipedia
河川の名称としての江戸川は1970年8月をもって神田川に変更(上流区間・下流区間の名称に統一)され、消滅した。また、文京区内でも住居表示の実施に伴って町名が変更されたため、1966年7月までに沿岸の町名から江戸川を含むものが消え、江戸川町と西江戸川町が水道一丁目・水道二丁目・後楽二丁目の各一部となった。町名変更後は当駅と橋梁の名称のほかに付近の小学校(新宿区立江戸川小学校)や公園(文京区立江戸川公園、新江戸川公園[注釈 3])などにその名を留めている。

知っていますか?荒川放水路のこと「荒川放水路通水100周年」
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