市川駅北東地区「睦会」クロニクル
第二次世界大戦が終わった1945(昭和20)年から1947(昭和22)年まで、全国各所の駅前の空き地などに闇市が立ちました。闇市の立地には、空き地、道路脇、寺社境内、橋のたもと、用水路の上が挙げられます。
闇市は、闇取引が行われる店が集まった場所です。
闇取引というと、今では麻薬や武器が扱われていますが、戦後は事情が違います。配給制度という正規ルートでは、生活に必要な食べ物などが行き渡りませんでした。そんな食糧難の中、闇取引で得られる食べ物を拒否して、栄養失調で亡くなった山口良忠判事の話は、NHKの連続テレビ小説「虎に翼」で再現されていました。
配給制度も流通システムも崩壊している社会状況で、生き延びるために、非合法・不正な闇市が存在したのでした。
そんな闇市は決していかがわしい場所ではなく、現在の公設市場やフリーマーケットのような雰囲気だったと、永井荷風の『断腸亭日乗』の内容から考えられます。
1947(昭和22)年7月23日付『朝日新聞』のコラム「天声人語」には、次の記述がありました。
ヤミ市は、ある意味で、今の日本の縮図ともいへる。敗戦日本の一つの面の象徴でもある。われわれの食生活から、ヤミを取去ったら、あと何割が非ヤミであるか、すこぶる疑問だ。それほどヤミは、国民生活を広汎に侵食してゐる。
闇市には、次のスタイルの店がありました。
●露店:立ち売り、あるいはムシロ(筵)に座って売るスタイル→移動が簡単
●マーケット:廃材などを利用した長屋型のスタイル→移動が困難
マーケットは土地に建物を建てるため、占有権や営業権といった権利が発生するわけですが、そもそも、誰の土地かわからない場所に不法占拠して建設されています。そのため、地主・借地人・借家人といった複雑になっていました。
東京では、闇市を組織したのは的(てき)屋(香具師〈やし〉)でした。的屋のルーツは、江戸時代の武士なのだそうです。「十三香具虎の巻」という名前で、露店で扱ってよい13品目が示され、食べていけない武士が商品を売り歩いたとのこと。
1945(昭和20)年10月に、警視庁の指導で、露天商のトップが集まって、東京露天商同業組合が結成されました。理事長は、新宿の的屋のボスであった尾津喜之助が務めました。組合本部の下に支部があり、支部の下に組が配置されました。東京露天商同業組合は2年で解散します。
●管理:本部、行政→支部→組→露店
●お金(出店費、入会金):露店→組→支部→本部、行政
このような露店を統制する仕組みの一部が、暴力団へと変化していきました。
東京の隣にある千葉県市川市の市川駅周辺にも、東京露天商同業組合の影響が及んだと推測できます。
市川駅前の広場にあった闇市はマーケットとなり、「睦会マーケット」という名前が付けられました。「睦会」については、池袋駅東口の闇市・マーケットを管理していた的屋の名称でした。関連性があるのかどうかは、わかりません。
大阪府大阪市には、大阪市中央卸賣市塲睦會が戦前に存在し、また、秋田県横手市では、露天商のグループとして「睦会」が1946(昭和21)年にできたようです。
「睦会」という名称は、当時はありふれていたとも考えられます。
闇市の特徴は、お金も経験もない人でも、商いを試しに始められることでした。この特徴はマーケットにも引き継がれましたが、再開発でビルができると賃貸料が高くなるなどの影響で、零細の個人企業は去っていきました。
闇市やマーケットの活気は、ここがチャレンジの場として熱気があったことも関係しているはずです。
戦災で家族を失った人、引揚者といった社会的弱者が、闇市での商いで救済されると同時に、場所を提供する寺社、場所を取り仕切る的屋が金銭を得ることもできました。さらに、行政や警察も、ある程度は黙認し、単純に合法・非合法ともいえない、曖昧なグレーゾーンだったのでしょう。
再開発のビルは、テナントの賃貸料の高いことでチャレンジの場ではなくなってしまいました。大資本でなければテナントを借りられないため、「どの駅前もドラッグストアチェーンなど同じ店が並ぶ、画一的な風景」になりがちです。市川駅南口の再開発ビルであるI-linkタウンいちかわ(2棟)は、長らくテナントが借りられていない状態で、ゴーストタウンのような雰囲気もありました(現在は解消されています)。
加えて、再開発で駅前が公共施設となり、広場などで営利目的の活動が制限されることもあります。具体的には「ここで儲けたらダメ」となって、小商いをチャレンジしたい若者に敬遠され、にぎわいと活気が失われるケースもあるでしょう。
■市川駅北口再開発までの歴史年表 ※間違いがあれば指摘してください
明治~昭和初期 空き地に闇市が立つ
1894(明治27)年 総武鉄道市川駅ができる(このときには南口はない)
国道14号(千葉街道)から国府台にかけて商店街が発達し、駅前は空き地が多い状況でした。
1939~1945(昭和14~20)年 第二次世界大戦
1945~1947(昭和20~22)年 駅前の空き地で闇市が形成
1947(昭和22)年頃 闇市のあった場所に睦会マーケット・商店街が形成
永井荷風の『断腸亭日乗』の内容から、市川駅前で、最初はムシロ(筵)などの上に商品を並べて売っていた露店が、1947(昭和22)年3月までに長屋形式のマーケットになり、後に睦会マーケット)と名付けられたと推測。
『荷風ノ散歩道』(市立市川歴史博物館 1990年)に、睦会マーケットの店舗がわかる市川市動態図鑑が掲載されていますが、いつのものかは記載されていませんでした(市川市中央図書館では、昭和 32 年(1957)版、昭和 36 年版(1961)、昭和 41年版(1966)を所蔵)。
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| 睦会マーケット(出典:『荷風ノ散歩道』) |
闇市が開かれていた場所にマーケットと呼ばれる長屋型の共同店舗が建設され、やがて周辺にも商店街が発達しました。そんな市川駅前の睦会マーケット・商店街は、闇市の頃から、地権者に反社会的勢力も含まれていました。
睦会マーケット・商店街の大部分が、ドブの上に店舗が建っていたため、再開発が必要となりました。
1959(昭和34)年12月 国鉄市川駅に南口の改札口ができる(市川の都市計画より)
高度成長期 駅前再開発で「戦後」を清算
1960年代 市川駅北口防災街区造成組合が発足
1965(昭和40)年 市川駅南口アーケード街オープン ※『オール生活』(実業之日本社)1966(昭和41)年1月号
店舗付き住宅が立ち並び、長さは160メートル。商店は48軒。
駅北側にある睦会マーケット・商店街の大部分が、ドブの上に店舗が建っていたため、多くの店主が立ち退きを長きにわたって検討していました。
南口にあった宝酒造の工場が移転することから、跡地の一部を不動産会社が開発し、分譲地として売り出し、睦会マーケット・商店街で商いをしていた店主のうち8人が市川駅南口アーケード街に移転。
| 1967(昭和42)年頃の市川睦会の店舗(出典:市川市広域商業診断報告書〈市川市、市川商工会議所、千葉県 1967年〉) |
| 1969(昭和44)年に撮影された睦会マーケット(出典:市川市文学ミュージアム データベース) |
1971(昭和46)年 株式会社市川ビルが発足
富川進市長などの働きかけで再開発が進められました。睦会マーケット・商店街の占有権と営業権を金銭などで清算。再開発ビルで借地と借家を斡旋。
1975(昭和50)年 商業ビルの市川ビルが竣工
ダイエー市川店などがテナントで入りました。
一口に「市川市」といっても、エリアごとに異なる歴史があり、現在の建物にはその蓄積に即した変化があります。昭和レトロの建物を取り壊すのには「寂しさ」といった感情も生まれます。一例が、JR本八幡駅北東地区のサイゼリヤ1号店教育記念館です。
| サイゼリヤ1号店教育記念館 |
ただ、駅の周辺の土地については、時代とともにダイナミックに変化し続ける、市民の生活基盤だと割り切って考える必要もありそうです。古い都市空間を保存する場所、時代に合わせて新陳代謝を繰り返す場所などを検討し、選ぶのは、私たちではないでしょうか。人口減少時代には、縮んでいくというのも、一つの新陳代謝だといえそうです。
■主な参考資料
『戦後東京と闇市』著:石榑 督和 鹿島出版会
『オール生活』1966(昭和41)年1月号 実業之日本社
神農とは
「悪法」に殉じ、ヤミ米拒んで餓死した山口良忠判事 おいが語り継ぐ覚悟と葛藤
『市川まちかど博物館』著:いちかわ・まち研究会 株式会社エピック
『新聞集成昭和編年史 昭和21年版 1』
延々と工事が続く「100年に一度の渋谷再開発」で「かえって不便」に…街づくりに決定的に欠けていた視点とは
『月刊いちかわ』2014年6月号(株式会社エピック)

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