「要約不可能な知的巨人」精神科医の式場隆三郎博士と市川のバラ

式場隆三郎家住宅(国指定文化財等データベースより)


  1936年に、国府台で創設された式場病院。創立当時は「国府台病院」で、創立者は新潟県出身の式場隆三郎博士でした。


 新潟市美術館が2020年に式場隆三郎博士の企画展を行っているのですが、その際に「要約不可能な知的巨人」「カオス」と式場博士を表現していました。
 精神科医であり、アート関係の事業を手掛け、著書は200冊にも及ぶことから、こうした表現が生まれたのだと考えられます。

 市川市の「市民の花」はバラ。これも、ルーツをたどると式場博士となります。そんな式場博士について情報をまとめてみました。


 1898年に式場博士は新潟県中蒲原郡五泉町(現在は五泉市)で生まれました。1921年、新潟医学専門学校(現在は新潟大学医学部)卒業。1929年、医学博士(新潟医科大学)。

 新潟市での医学生時代に、式場博士は白樺派に傾倒します。
 白樺派は、1910年に創刊した同人誌『白樺』を中心に活動した、文学者や美術家のグループです。武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎、柳宗悦が中心となり、生命の肯定と個性の輝きを追求したのが特徴です。
 「近代彫刻の父」と呼ばれているフランスの彫刻家のオーギュスト・ロダンに白樺派が浮世絵を送ったところ、ロダンから白樺派には彫刻が3点送られたとのこと。『白樺』ではロダンをはじめ、オランダの画家であるフィンセント・ファン・ゴッホなどを取り上げられました。

白樺派(Wikipediaより)



 1919年に式場博士は同人誌『アダム』を創刊して、新潟市で武者小路実篤や柳宗悦の講演会などを開きました。これをきっかけに、千葉県我孫子市にあった柳宗悦の自宅を、式場博士は訪問しました。
  1921年に新潟医学専門学校を卒業し、地元で精神科医となったものの、翌年の1922年には上京して大井町倉田で神経科医院を開業。1923 年には関東大震災の被害を受けます。

  柳宗悦は民衆が日常に使っている雑器に価値を見出し、「民藝」と名付けた思想家です。式場博士は、柳宗悦に対して、生涯にわたって「私の芸術に関する恩師」と尊敬していたとのことです。柳宗悦が研究を行っていた木喰仏(もくじきぶつ)の全国調査に、1925年に参加しています。木喰仏とは、江戸時代の木喰(もくじき)という僧が彫った仏像です。
 柳宗悦は、1926年に、河井寛次郎・浜田庄司とともに民藝運動を提唱しました。
 柳宗悦に影響を与えたのは、イギリスの詩人で画家・銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク。式場博士も、ブレイクに傾倒していたようです。
ウィリアム・ブレイクが描いたユリゼン


 1925年に式場博士は木喰仏の研究を離れ、帰省して実家に近い中蒲原郡金津村(現・新潟市秋葉区)に医院を開設。翌年の1926年には精神医学の研究のために、母校である新潟医科大学(1922 年に新潟医学専門学校から昇格)に戻ります。
 1928 年に学位論文「新潟市小学児童の知能基準ならびに劣等児の精神病学的研究」を完成させて、「学位論文の完成に必要」という名目で1929年にヨーロッパを旅行します。ヨーロッパで柳宗悦たちと合流し、ゴッホの資料を集めるなど研究を行います。

 帰国して1930年に新潟医科大学に戻り、同年に山梨脳病院(現在は特定医療法人山角会山角病院)に就職したものの辞職し、静岡県の大宮病院の院長となります。翌年の1931年には静岡脳病院の院長に就任。静岡脳病院に院長として勤務していた1932年に、『ファン・ホッホの生涯と精神病』(聚楽社)を発表します。

 1936年、千葉県市川市国府台に精神病院である国府台病院を設立。ネット上には、白樺派の人々が住んでいた千葉県我孫子市の手賀沼湖畔の周辺で、式場博士が土地を探していたところ、市川市となったという情報があったものの、あまりに遠すぎる気が……



 式場博士は、太田典礼(旧名は武夫)医師とともに、『性科学研究』(1936年1~9月)、『性教育』(1936年11月~1937年1月)、『ユマニテ』(1936年3~5月)の3つの雑誌の編集責任を務めました。
 『性科学研究』の目的は、従来の日本における「猟奇的」「挑発的」「遊戯的研究」に対して、生物学的のみならず歴史的・社会的分析考察により、「史的批判」を行うことにあったとのこと。

 1936年に障害児入所施設の八幡学園の顧問医に就任し、入所していた山下清のちぎり紙細工の才能に注目していました。
『山下清作品集』(河出書房新社)



 1937年には、『四十からの無病生活法』(実業之日本社)を刊行します。

 当時の日本は、1929年の世界恐慌の影響で経済不況が深刻になり、政党政治も行き詰まっていました。1931年の満州事変、1936年の二・二六事件と、軍部が暴走します。1937年には日中戦争、1941年には太平洋戦争が始まります。
 そんな中、国内での思想・言論・宗教への弾圧が激しくなりました。

1938年には『性科学研究』において交流のあった唯物論研究会の主要メンバーが一斉検挙され、戸坂潤は獄死した23。また39年には太田もまた検挙・投獄されたという社会状況において、式場もまた性科学から距離を置くことになる。そして、このような時代状況において転向を余儀なくされたその後の式場にとっての「社会的なもの」「民衆的なもの」は、柳宗悦の民藝運動であり、戦後は山下清のプロデュースへとつながっていくことになる。





 1939年に市川市に自宅を建設した建築家の岸田日出刀(きしだひでと)博士(工学)と、式場博士は交流があったとのこと。

 1939年には、式場博士は編集者として、日本民藝協会機関誌『月刊民藝』を創刊します。

 1940年には、『処女のこころ』『人妻の教養』(鱒書房)といった女性向け実用書を刊行しました。

 『月刊民藝』1941年9月号では、以下のような記述を行っているとのこと。

患者に薬を飲ませたり、注射をしたりも仕事の一部だが、複雑な精神生活はそういうものでは救われない。生活全般の建て直しをしなければならぬ。民藝運動が人間を健康にする

 1943年に日本民藝協会の一員として、満洲民藝調査団に加わり、満州国を旅しました。

 戦後の1946年に、国府台病院を式場病院と改称したほか、日刊新聞「東京タイムズ」を創刊し、東京タイムズ社内に出版部門のロマンス社創立。

 一方、1948 年に 『月刊民藝』の刊行が途絶えます。その理由は、式場博士が印刷用紙の配給権の手違いから、発行する権利を失ったためです。これを機に、式場博士は民藝協会理事を辞任し、民藝運動の中心から外れることになりました。

 山下清が1940~1955年に放浪を繰り返したことから、式場博士は1955年に「東京タイムズ」に山下清の放浪記を掲載し、山下清ブームが起こります。1956年には東京大丸で「山下清全作品展」の開催を手がけ、『山下清放浪日記』(現代社)をまとめました。

 また、1952年に式場病院にバラ園を作り始めました。同年に「市川バラ会」が結成され、翌年の1953年には式場博士が中心となり、市川駅北口ロータリーに約300株のバラの苗木を植えたバラサンクンガーデンが作られました。サンクンガーデン(沈床花壇)とは、周囲の地面より一段低く掘り下げて作られた、平面的な西洋式の花壇です。

 式場病院では、1955年に火災が発生し、施錠された病棟から出られなかった患者18人が焼死しました。閉鎖病棟の鍵の統一や消火・避難訓練の強化など、その後の対策の改善につながった歴史的な事件です。 

工芸の国日本が、欧米の模倣から脱してその本領に生きるならば、建築やその内部の設備や構成にもユニークなものが生まれる可能性を信じたい

私の期待しているのは、病院の庭である。このごろの建築の飛躍はすばらしいが、その周辺の庭や環境の処理はひどく見劣りがする。大部分は庭などには予算もとってないし、無視されている。しかし、人間の生活は、植物なしにはすめない筈である。近代色のアパートが植木や花に疎遠なのは、おかしい。あれに美しい木がそえられ、美しい花がついたら更にどんなに美しいだろうと思えることが多い。私が最近みたある地方の県立精神病院なども、院内の病室には色彩の配慮までひどく力をいれてありながら外庭には一木一草もなかった。きけばそこまでは手がまわらぬという。しかし、手がまわらぬではすまされない。病院は環境が大切である。ことに精神病院では、それが重大な要素となる。

出典:式場隆三郎「日本の精神病院の近況」、日本精神病院協会編『日本の精神病院第一集』(1958年)

 病院の敷地は一万二千坪ぐらいだが、そのうち約三千坪ぐらいをバラ園にした。(中略)バラは二千本ぐらいで、その種類は約六百種である。もとより、つるバラも多い。春の五月、秋の十月は病院の内外には、無数の美しいバラの花々が咲きそろう。(中略)精神病院らしい陰惨さをもたせないように、努力した。この意図はほぼ成功して、近くの子どもも親しんで入ってくるようになった。数年前の春のバラの頃、アメリカのある大学の精神病学者が視察に来たことがある。そのときちょうど市川市内の幼稚園のこどもたちが数百人も病院の庭へきて遊び、昼食をしているのだった。アメリカの医学者はびっくりしてしまった。世界中どこの精神病院も、いかめしい感じや、恐ろしい感じがして、おとなも近づかない。それなのにこの病院では、まるで遊山にでもいったように子どもたちが楽しく遊んでいるではないか。
(式場隆三郎「精神病院の緑化」 昭和35年)


 1965年11月に胃がんのため、式場博士は67歳で亡くなりました。

 1971年には、バラ園は3万3000平方メートルで、毎年5月下旬のバラの開花期に市民に開放していたとのこと。
 食べる物にも事欠く戦後の混乱期に,せっぱつまった人の気持ちをなんとか豊かにしたいと令国に広まった‘バラ運動’にあわせ,ここでもいち早く,精神障害者の作業療法のひとつとして,バラの栽培を取り入れた.
『病院』30巻6号(1971年6月発行)

 今では毎年5月になると、市川市の各所でバラが見られます。

里見公園

 式場博士の経歴をたどってくると、確かに幅が広すぎて「カオス」ではありますが、根底には若い頃に傾倒した白樺派、そして民藝運動があるようにも思えます。

 芸術は美術館など非日常ではなく、普段の生活の中にあること。
 手仕事の美しさ。
 自然との調和。
 そして個性を尊重した理想社会の追求。

 その象徴が、市川のバラなのかもしれません。


■主な参考資料
式場病院

市川市サイト

近代日本精神医療史研究会

新潟市美術館 式場隆三郎:脳室反射鏡

「式場隆三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9227.html

調布市武者小路実篤記念館

「満洲美術」研究-交差する満洲イメージの検証
https://files.core.ac.uk/download/235584491.pdf

名古屋哲学研究会
柳宗悦と式場隆三郎―戦前・戦中における民藝運動の一断面―
健康に至る病 または式場隆三郎は如何にして愛するのを止め て、アウトサイダーを心配するようになったか
https://sites.google.com/site/nagoyaphilosophy/home?authuser=0

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