【コミュニティづくり入門】ネット時代のコミュニケーションとコミュニティ
あまり期待せずに読んだ本が、思いがけず私的にはヒットということがあります。
そんなラッキーな一冊が『ネットコミュニティの設計と力』( KADOKAWA)。
監修を、はてな代表取締役会長の近藤淳也さんが担当しています。おそらく監修というより責任編集という役割だったと推測します。
というのも、コミュニティとは何かについて、ネットに限定せず、サル学から地域研究まで幅広く識者が語っていたからです。
近藤さんは次のように書いています。
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インターネットに限らず、「コミュニティ」というものは、なんともとらえどころのない、曖昧模糊とした存在である。この曖昧な存在について、一般的に語ることは非常に難しい。しかし、せめて自分なりにそれをどう捉え、どう実践し、その結果どうなったか、を振り返ることはできる。
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「コミュニティはこれだ!」と断言できないモヤモヤ感を抱えながらも、自分なりに迫ってみようという態度に共感を覚えました。
そして、『サピエンス全史』(著/ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社)を読み終えて、ちょっとしたショックを受けていたところでした。
人類は進化の過程で、目の前にない物事(虚構)について語り、大多数で協力関係を作ることができるようになったことで、他の動物を圧倒する存在になったわけです。
まさにコミュニケーションとコミュニティ。
『ネットコミュニティの設計と力』では、京都大学総長の山極壽一さんが、人間とサルのコミュニティの違いからコミュニケーションのあり方まで語っていました。
『サピエンス全史』とリンクする部分があり、興味深く読めました。
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ネットで心と心を通じ合わせることは、むしろやめた方がいい。視覚情報や身体性を伴わないコミュニケーションは確実にコミュニティに齟齬を生む。(中略)
ネットはコミュニケーションのツールではなく、情報共有の手段であることを念頭に置いた上で、それによって何ができるのか、どのような方面に利便性が高まるのか。私が期待するのは、そういった方向の議論である。
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ネットコミュニティをどう運営していけばいいのかというノウハウが細かく紹介されている章もある中で、警告のような山極さんの意見も載せているわけです。
『サピエンス全史』では、集団で虚構を信じる能力が、人類を農耕社会、国家、法律、貨幣、宗教、科学、自由主義、資本主義と、文明を築く礎となったと説明されています。「だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?」と筆者は問いかけてくるのです。
今は京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典さんは、『ネットコミュニティの設計と力』で次のように述べていました。
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近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが現在の状況ではないか。
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『サピエンス全史』では地球資源の有限性については否定的だったと記憶していますが、これまで絶対的な善だと思い込んでいた「発展」を極限まで進めていくことが人類にとって幸せなのかと疑問を呈しています。
広井さんは、情報技術を「身体性・場所性・ローカル性」といった土台に"着地"させていく方向性について語っていました。
この点で、ちょっと思い当たるSNS上のコミュニティ(グループ)があります。市川に特化した情報を交換し、メンバーがオフ会を開いたり、地元のお店で声を掛け合ったりしているのは、広井さんがいうところの"着地"ではないかと。
私にとってもいまだに曖昧模糊とした存在の「コミュニティ」について、市川にかかわる人々がどう捉え、どう実践しているのか、結論を急がずに自分なりに迫っていきたいと思います。
その先に何があるのかはわかりませんが、『クラナリ』は完全に個人的な趣味で制作していて、社会貢献や費用対効果などは一切考えていないので、それはそれとしていいかと(笑)。
最後に、『サピエンス全史』ではコミュニティを「心温まる共同体」とはとらえていませんでした。
実際、世界には残酷とも思える慣習が残っているコミュニティが存在します。「名誉の殺人」などがそれに当たるのではないかと。
コミュニティを維持するために個人は抑圧されるわけですね。
ちなみに、イヌイットには、狩りに行かずに女を口説き、ウソばかりついている男を、誰も見ていない場所で氷の縁から集団で突き落とすのが習慣があったそうです。『良心をもたない人たち』(著/マーサ・スタウト、草思社)に書かれていました。
コミュニティのルールに従わなければ排除されるということです。そこには逆恨みも生じる可能性があります。
『ネットコミュニティの設計と力』に寄稿しているHagexさんは、「荒らし」という行為を繰り返して「低能先生」と呼ばれていた男から刺殺されました。
低能先生は、はてなというネットコミュニティで他人を低能呼ばわりしていたため、この名がつけられたのだそうです。Hagexさんは低能先生がはてなで投稿できないように働きかけていたとのこと。
ちなみに、低能先生は私の地元では名門の九州大学を卒業。それもあって、この事件が忘れられません。
こうした事件も踏まえ、コミュニティについては「全面的に望ましい」とは異なる立場で『クラナリ』では特集を組む予定です。
そんなラッキーな一冊が『ネットコミュニティの設計と力』( KADOKAWA)。
監修を、はてな代表取締役会長の近藤淳也さんが担当しています。おそらく監修というより責任編集という役割だったと推測します。
というのも、コミュニティとは何かについて、ネットに限定せず、サル学から地域研究まで幅広く識者が語っていたからです。
近藤さんは次のように書いています。
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インターネットに限らず、「コミュニティ」というものは、なんともとらえどころのない、曖昧模糊とした存在である。この曖昧な存在について、一般的に語ることは非常に難しい。しかし、せめて自分なりにそれをどう捉え、どう実践し、その結果どうなったか、を振り返ることはできる。
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「コミュニティはこれだ!」と断言できないモヤモヤ感を抱えながらも、自分なりに迫ってみようという態度に共感を覚えました。
そして、『サピエンス全史』(著/ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社)を読み終えて、ちょっとしたショックを受けていたところでした。
人類は進化の過程で、目の前にない物事(虚構)について語り、大多数で協力関係を作ることができるようになったことで、他の動物を圧倒する存在になったわけです。
まさにコミュニケーションとコミュニティ。
『ネットコミュニティの設計と力』では、京都大学総長の山極壽一さんが、人間とサルのコミュニティの違いからコミュニケーションのあり方まで語っていました。
『サピエンス全史』とリンクする部分があり、興味深く読めました。
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ネットで心と心を通じ合わせることは、むしろやめた方がいい。視覚情報や身体性を伴わないコミュニケーションは確実にコミュニティに齟齬を生む。(中略)
ネットはコミュニケーションのツールではなく、情報共有の手段であることを念頭に置いた上で、それによって何ができるのか、どのような方面に利便性が高まるのか。私が期待するのは、そういった方向の議論である。
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ネットコミュニティをどう運営していけばいいのかというノウハウが細かく紹介されている章もある中で、警告のような山極さんの意見も載せているわけです。
『サピエンス全史』では、集団で虚構を信じる能力が、人類を農耕社会、国家、法律、貨幣、宗教、科学、自由主義、資本主義と、文明を築く礎となったと説明されています。「だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?」と筆者は問いかけてくるのです。
今は京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典さんは、『ネットコミュニティの設計と力』で次のように述べていました。
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近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが現在の状況ではないか。
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『サピエンス全史』では地球資源の有限性については否定的だったと記憶していますが、これまで絶対的な善だと思い込んでいた「発展」を極限まで進めていくことが人類にとって幸せなのかと疑問を呈しています。
広井さんは、情報技術を「身体性・場所性・ローカル性」といった土台に"着地"させていく方向性について語っていました。
この点で、ちょっと思い当たるSNS上のコミュニティ(グループ)があります。市川に特化した情報を交換し、メンバーがオフ会を開いたり、地元のお店で声を掛け合ったりしているのは、広井さんがいうところの"着地"ではないかと。
私にとってもいまだに曖昧模糊とした存在の「コミュニティ」について、市川にかかわる人々がどう捉え、どう実践しているのか、結論を急がずに自分なりに迫っていきたいと思います。
その先に何があるのかはわかりませんが、『クラナリ』は完全に個人的な趣味で制作していて、社会貢献や費用対効果などは一切考えていないので、それはそれとしていいかと(笑)。
最後に、『サピエンス全史』ではコミュニティを「心温まる共同体」とはとらえていませんでした。
実際、世界には残酷とも思える慣習が残っているコミュニティが存在します。「名誉の殺人」などがそれに当たるのではないかと。
コミュニティを維持するために個人は抑圧されるわけですね。
ちなみに、イヌイットには、狩りに行かずに女を口説き、ウソばかりついている男を、誰も見ていない場所で氷の縁から集団で突き落とすのが習慣があったそうです。『良心をもたない人たち』(著/マーサ・スタウト、草思社)に書かれていました。
コミュニティのルールに従わなければ排除されるということです。そこには逆恨みも生じる可能性があります。
『ネットコミュニティの設計と力』に寄稿しているHagexさんは、「荒らし」という行為を繰り返して「低能先生」と呼ばれていた男から刺殺されました。
低能先生は、はてなというネットコミュニティで他人を低能呼ばわりしていたため、この名がつけられたのだそうです。Hagexさんは低能先生がはてなで投稿できないように働きかけていたとのこと。
ちなみに、低能先生は私の地元では名門の九州大学を卒業。それもあって、この事件が忘れられません。
こうした事件も踏まえ、コミュニティについては「全面的に望ましい」とは異なる立場で『クラナリ』では特集を組む予定です。
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