国分地区急傾斜地崩壊危険地域は、どうして危険地域になったのか問題

 物事に対して疑り深くなったのは、年齢のせいではありません。市川市真間5丁目近辺が、台地を削り取って地形が変わってしまったことを知ったからです。「この土地も変かも」「ここも削られちゃったのかな」と、いちいち気になるから厄介。

 そうした経緯があり、気になっている地域がありました。

 国分地区急傾斜地崩壊危険地域。

見えにくいのですが、手前の看板には「国分地区急傾斜地崩壊危険地域」の文字が

 自然な状態で急傾斜地だったのでしょうか? あるいは人間の手で削り取られてしまって危険地域になってしまったのでしょうか?

 そもそも、国分3丁目のトマト農家「サンファーム・シノダ」を探しているときに、急な坂道を見つけ、つい上ってしまったことが始まりでした。
 細いうえに、ほぼ直角に曲がっていて非常に危険。自転車事故多発地帯では?


国分3丁目の台地を上る坂は急で細いですね

上から見たところ。見通しが非常に悪いです

 ただ、「国分地区急傾斜地崩壊危険地域」は、自転車のブレーキが利きにくいことではなく、土砂崩れで危ないということを示しているのでしょうね。
 どうしてこんなことになってしまったのか、まずはこの地域を歩いて調べることにしました。

 JR市川駅から下総国分寺に向かう途中で、立て看板発見。


 国分地区急傾斜地崩壊危険地域という看板があった辺りの坂道が通行止めになるようです。

 立て看板の右にある国分寺方向の道路は、傾斜地がコンクリートで固められています。

  立て看板の左は木々が生い茂って、ややジャングル。

 国分寺方向に進みました。
「のぼらないでください」と書いてると、つい上りたくなるというか……

 坂道の上は分岐し、とりあえず国分寺には向かわない細道のほうを進みました。緑色のフェンスが建って写真には見えませんが、フェンスの下は先ほどのジャングル状態の斜面になっていました。

 少し進むとすぐに下り坂になっていたので、引き返して国分寺方向へ。


今回は国分寺を通り過ぎます。

 少し進むと、天満宮が現れました。

  この写真でわかるでしょうか、天満宮の敷地と隣家の敷地の高さが大きく違っていて、石碑の裏側は隣家の2階部分になっています。急な斜面だったのかもしれません。

 下総国分寺跡の前を直進。



 道沿いをカーブすると、下り坂でした。

 ちょっとわかりづらいのですが、奥に外環道のフェンスが見えます。ここで引き返しました。

 国分地区の台地の上は畑。


奥のほうにあるのは、アンテナ?

  今回も登場したのが庚申塔。

 じゅんさい池の前にある庚申塔と同様に、地域の人々に今も祭られているようです。

 下総国分尼寺跡でまた出てきたのは……

 馬頭観音の数々。国分尼寺跡公園の脇に馬捨て場があったからと、看板には書かれているものの、見たところ、道端にあったものが集められた様子です。



 スポーツセンター方向へ向かうと、下り坂になっていました。この地域も電動自転車率が高いといえます。スライダーで坂を上ろうとしていた男の子が、電動自転車に乗るお母さんに文句を言っていました。

 坂を下りると、たくさん試飲させてくれると看板に書かれている酒屋。

 その斜め向かいにはお地蔵様。


 急傾斜地崩壊危険地域になった理由はまだこれからですが、図らずも石像・石標巡りをするという結果になってしまいました。

 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の詔により日本各地に国分寺が建立されました。市川市内の「国分」という地名の由来は、国分寺にあります。
 そんな大切な国分寺を建立するのに、わざわざ崩壊の危険がある土地を選ぶでしょうか?
 崩れ落ちてしまったら「ものすごく不吉」とされてしまい、一大事です。
 ですから、少なくとも奈良時代は急傾斜地崩壊危険地域ではなかったであろうと『クラナリ』では考えます。
 

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