勝手にパワースポットその22 真間山
真間山
〒272-0826
千葉県市川市真間4丁目9−1
奈良の大仏の造立で知られる行基(668 - 749年)。
奈良時代に日本全国を巡り、仏教の布教だけでなく土木工事なども行ってきました。治水工事に、橋や道の建設などで、民衆を助けてきたのです。
このような事業で行基が民衆の間であまりにも人気だったために、朝廷の役人たちから危険視されて、名指しで批判されたり、弾圧を受けたりしてきたそうです。
民衆にとってのスーパースターでありカリスマだった行基が開いたのが、真間山。737年のことだそうなので、行基が69歳のときのことです。
ちなみに、行基が生まれたのは今の大阪府なので、千葉県が地元ではありません。行基開基とされている寺院についても、関西が圧倒的に多く、「行基のホームは関西」で間違いないでしょう。
そんな行基が、69歳という高齢で千葉県市川市にいたという点でも、すごいとしかいえません。当時の移動は徒歩と馬で、遠くまで移動するにはかなりのパワーを必要とするからです。
ここから、またも勝手な想像です。
勝手にパワースポットその5 手児奈霊神堂の池 でも書きましたが、歴史や伝説などは、後世の人々の都合のよいように変えられます。
手児奈霊神堂については、「モテすぎて困った美女、手児奈が自殺したことをあわれんで行基が建立した」などといわれていますが、本当にそうなのでしょうか。
朝廷から弾圧された行基は、人権などの概念がない時代、きっとさまざまな嫌がらせを受けていたでしょう。さらに、この頃、民衆は重い税や労役に苦しめられ、道端で野垂れ死にしていたといいます。
そんな民衆の悲しい死を見てきた行基が、男女のいざこざで自分から死んだ女性のために、わざわざ寺を建てるとは思えないのです。
ですから手児奈については、伝説とは違う真実があったと推測しています。
今では真間山にあるのは弘法寺ですが、行基が開山したときは求法寺という名前でした。
「求法」とは、仏法を求めるという意味。権力者から弾圧を受けるだけでなく、お経を求めて砂漠を旅するなど、求法には厳しさ、困難、忍耐という語感もあるように思います。
民衆のために尽力してきた行基なだけに、真間山求法寺にも「救済」という側面があったのではないでしょうか。
古くから寺や神社がある場所については、災害に遭いにくいというデータがあります。地震があっても地崩れしながったり、洪水になっても水が届かなかったりするとのこと。
これはなにも「パワースポット」だからではなく、そのような場所を選んで寺や神社を建てていたからです。
奈良時代には、寒冷期から温暖期に変わっていっているため、水害が多かったはずです。民衆も困っていたに違いません。
それで、避難所として、真間山求法寺を行基は建てたのだと考えられます。
水浸しにならず
飲み水が得られる
それが避難所の条件。
現在の真間山弘法寺には、里見龍神堂があります。看板の由縁には別のことが書かれていたのですが、水の神とされる「龍神」なだけに湧き水があったのではないでしょうか。
| 里見龍神堂 |
洪水になったらすぐに高い場所に移動できるように、行基は山を切り開き、道を作って、飲み水を確保した。民衆を助けるために……
あくまでも勝手な妄想です。
■参考資料
奈良偉人伝
http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/ijin/gyoki/
『池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター篇』(著/池上 彰、日経BP)
Leave a Comment