市川真間ぐるぐる ~東華園の面影を探して

  京成電鉄市川真間駅の北口のすぐ近くにある「京成倶楽部」だった建物。かなり有名なようで、ネット上の複数のサイトで、京成倶楽部は1929(昭和4)年に建てられた木造建築と紹介されています。

 しかし。

 1928(昭和3)年に発行された「千葉県市川町鳥瞰図」(松井天山 )には、しっかりと京成倶楽部の建物が描かれています。というわけで、1929年に建築されたというのは誤りということになります。
 正確な資料が欲しいところです。
俯瞰図から読み解く市川 より

 今回は、「千葉県市川町鳥瞰図」を手掛かりに、「東華園」のあった場所を巡ることにしました。

 『京成電鉄五十五年史』の197ページに、京成電気軌道株式会社は1919(大正8)年には、東華園の直営を行っていて、果樹などが多数植えられ、「春秋の行楽期は近郊唯一の名園」。敷地が約3,900坪の庭園だったそうなので、東京ドームのグラウンド(13000㎡=3940坪)とほぼ同じ面積だったようですね。

 そう考えると、京成倶楽部も東華園と同じく1919年頃にはあったとも推測できます。


 目印は本多貞次郎像。

 太平洋戦争(1941~ 1945年)中の金属回収で銅像はなくなったそうで、台座だけが残っています。そこには本多貞次郎をたたえる碑文が載っているのですが、「精力絶倫」と書かれていて吹き出してしまいました。いけない、いけない……

本多貞次郎 ウィキペディアより

 今昔マップで確認すると、1917(大正8)~1924(大正15)年の地図だと、現在の市川真間駅の周辺は果樹畑。それが1927(昭和4)~1939(昭和16)年になると一気に宅地化しています。「京成電気軌道株式会社の影響や、いかに」という感じです。羽振りがよかったに違いありません。





 太平洋戦争の後は、東華園の跡地は市川の発展とともに分譲され、住宅地になったと『京成電鉄五十五年史』に書かれているそうですが、具体的なことがわかりません。

 ただ、1952(昭和27)に京成電鉄病院(後の京成電鉄診療所)が開設されているため、分譲はその後ではないかと推測しています。なお、京成電鉄診療所のあったところが、現在は市川市医師会館です。


写真左から、京成電鉄の線路、旧京成倶楽部、松、市川市医師会館


『京成の駅 今昔・昭和の面影』より
 上の写真は1969(昭和44)年8月に、市川真間駅を撮影したもの。江戸川側から菅野方向を見下ろすというアングルです。写真奥に大きな松林がたくさん写っていることが、現在の市川の風景と大きく異なる点ですね。

 そして昭和40年代に入ると業績が悪化してきたと『京成電鉄85年の歩み』に書かれていたことから、昭和40年代後半から昭和50年代までの間に、東華園の跡地を手放したのではないでしょうか。

 東華園の跡地にあるマンションのフォントが、昭和を感じさせます。


 そして、この辺りの道が非常に狭いのも、昭和。幅員4m未満の道路がグネグネと曲がっているため、緊急車両が入ってこれないでしょうね。

 目印の一つは本多貞次郎像ですが、もう一つは松の巨樹。町の歴史を調べるのに神社・寺・墓を目印にしますが、市川だと松も含まれます。

 「千葉県市川町鳥瞰図」に描かれている松は、以下の写真の木なのでしょうか。



 かつて、市川は桃林が有名な、大人のワンダーランドだったようです。


『写真で見る わがまち市川』より
 その面影はまったくなかったものの、下校中の女の子たちがかわいらしくて、それはそれで、すてきな風景だなと思いました。



■参考資料

『京成電鉄85年の歩み』

『写真で見るわがまち市川 』(中津攸子 郷土出版社)

『京成の駅 今昔・昭和の面影』


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