新ショウガと葛飾八幡宮の農具市との意外な関係
『クラナリ』vol.3「コミュニティづくり入門」では、「私たちの心のよりどころ コミュニティと神社の深い関係」という記事を掲載しました。葛飾八幡宮に関するこの記事の中に、以下の記載があります。
「寛永2年(1749年)の発行とされている『葛飾記』に、農具市の記述が見られました。当時は『生姜〈しょうが〉まち』と呼ばれていたようです」とのことでした。
この記事を作成したときから、どうして「生姜」なのだろうと不思議に思っていたのですが、またも葛飾八幡宮との関連で「生姜」が見つかりました。
1834~1836年(天保5~7年)に刊行された『江戸名所図会』の葛飾八幡宮の項に、次のように書かれていたのです。
放生会〈ほうじょうえ〉(八月十五日に修行〈しゅぎょう〉す。この日神輿〈しんよ〉渡らせらる。また同日、津宮〈つく〉といふことあり。夕方七時頃〈ときごろ〉当社の社人〈しゃにん〉ら集まり、華表〈とりい〉の前に檣〈ほばしら〉のごとく長き柱に白布〈しろぬの〉を巻きたるを建て、上の方にてその白布を結び合はせて足をかくる代〈しろ〉とす。念願ある人身軽になり、件〈くだん〉の楹〈はしら〉の上へ登り四方を拝し、社の方を拝し終はりて下る。〈中略〉またその津宮柱の下に楽屋をまうけ、神輿〈しんよ〉帰社におよぶとき、獅子〈しし〉・猿〈さる〉・大鳥〈おおとり〉の形を粧〈よそ〉ひて、この楽屋より出でて、笛・太鼓に合わせて舞ふことあり。同十四日より十八日までの間、生姜〈しょうが〉の市あり。ゆゑに土俗、生姜祭〈しょうがまち〉と唱ふ。マチは祭りの縮語なり)。
放生会は、福岡では筥崎宮で行われていて、それはもう大規模なお祭りです。参道にはたくさんの露店が並び、それこそ人でギューギューの密の状態でした(筥崎宮では放生会は「ほうじょうや」と呼ばれています)。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』では、放生会は次のように説明されています。
放生会 ほうじょうえ
仏教の殺生戒(→五戒)の思想に基づいて行なわれる,鳥獣や魚を放つ行事。その功徳は『金光明最勝王経』(→金光明最勝王経音義)などに説かれ,中国の天台宗開祖が行なったと伝えられており,日本では『日本書紀』のなかで,天武天皇5(676)年8月17日条に「諸国に詔(みことのり)して放生せしむ」とあるのが歴史上の初見。各地の寺院のほか,八幡神(→八幡信仰)をまつる神社を中心に行なわれており,大分県宇佐市の宇佐神宮や,京都府八幡市の石清水八幡宮の放生会はよく知られている。宇佐神宮の放生会は,養老4(720)年に反乱を起こして鎮圧された隼人の怨霊をしずめるため,八幡神の託宣により天平16(744)年に始まったと伝えられ,かつては旧暦 8月15日,今日では仲秋祭の名で 10月第2日曜日を中日とする 3日間に行なわれている。石清水八幡宮では,宇佐神宮にならって貞観5(863)年に始まったと伝えられており,石清水祭と呼ばれ,10世紀以降勅使が奉幣する勅祭(→勅祭社)として重んじられた。こちらもかつては旧暦 8月15日の祭りであったが,今日では毎年 9月15日に行なわれている。
石清水八幡宮のサイトによると、明治維新で石清水放生会は「仲秋祭」「男山祭」と名前が変わったそうです。1883年(明治16年)に明治天皇が旧儀復興を発令し、翌年から新暦の9月15日に祭りが開催されるようになりました。1918年(大正7年)に、現在の「石清水祭」になったとのこと。
石清水八幡宮といえば、葛飾八幡宮は平安時代に石清水八幡宮を勧請して創建されています。葛飾八幡宮で放生会が行われていたこと、「例大祭」と名称が変わったことなどは、石清水八幡宮と同じような経緯があったと推測できます。
筥崎宮のサイトでは、放生会〈ほうじょうや〉について「参道にはお化け屋敷や射的・ヨーヨー釣り・新ショウガなど約500軒もの露店」と記載されています。新ショウガは放生会の名物なのだそうです。
こうした理由で、放生会で立つ市を「生姜の市」「生姜祭」と呼んだと考えられます。
なお、東京都港区にある芝大神宮で、毎年9月11日から21日までの祭礼に開かれる生姜を売る市のことを「生姜市」と呼ぶと、デジタル大辞泉に書かれていました。
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| 江戸自慢三十六興 芝神明生粋の右下に、新ショウガ(国立国会図書館デジタルコレクションより) |
葛飾八幡宮で、どうして「生姜祭〈しょうがまち〉」が「八幡様の農具市(ボロ市)」と名前を変えることになったのかは、いまだに謎です。露店で新ショウガがあまり並ばなくなり、「ゆゑに土俗、ボロ市と唱ふ」ようになったのかもしれません。
※〈〉の中はふりがな
※『クラナリ』vol.3「コミュニティづくり入門」
「私たちの心のよりどころ コミュニティと神社の深い関係」




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