庶民が町神輿を担いで巡行し始めたのは90年前!? 神輿ブームが起こったのは高度成長期前半

  「屋台」と聞くと、福岡県出身者でなくても、ラーメン屋などの屋台を思い浮かべるのではないでしょうか。

 「練り物」については、かまぼこなど。

 しかし、祭りにおける「屋台」「練り物」は違うようです。


 『新明解国語辞典』では、次のように「屋台」を説明しています。

やたい【屋台】
(一)簡単に移動出来る、屋根をつけた売り台。道ばたなどで商品を売る。
「縁日の―店」
(二)お祭りの時、踊りの舞台になる屋根のついた台。
(三)能楽・演劇などで、家にかたどって使う大道具。
(四)「屋台骨ボネ」の略。
「―が傾く」
[かぞえ方](一)は一台:一軒。(二)は一台
 ページ 5456 での【屋台】単語。


 「練り物」は、町中を練り歩く行列。

千葉県観光物産協会公式サイトより


 練り物にはかまぼこではなく、「山鉾(やまぼこ)」が登場します。『日本大百科全書(ニッポニカ)』では以下の説明がありました。

山鉾 やまぼこ
神霊の依代(よりしろ)で、祭礼の神幸のときに引き出すもの。山は曳山(ひきやま)とか山車(だし)ともいわれるように、人形を飾って囃子(はやし)の人たちが乗り、曳子が綱で引く屋台のことであり、鉾は屋台の上に立てて飾るものをいう。神霊がこれにのりうつって村や町を巡幸し、氏子の生活を見守る趣旨のもので、神輿(みこし)の御幸(みゆき)と同様の意味をもつ。京都の祇園(ぎおん)祭の山鉾巡行や岐阜県の高山祭など著名で大掛りなものも多いが、村々では唐傘(からかさ)形のものに布をかぶせた素朴なものもみられる。夏祭りの風流(ふりゅう)として華麗に発展した。

京都フリー写真素材集

 神輿のルーツは、752年(天平勝宝4年)の大仏開眼法要で、大分県の宇佐神宮から八幡大神が紫色の輿に乗って東大寺にやって来たことだといわれています。

 一方、山車のルーツについては、祇園御霊会(明治以降の呼び名は祇園祭)で、『日本国語大辞典』によると、平安時代の863年(貞観5年)に行われたのが、文献上もっとも古いとのこと。

 全国各地で行われている山車の祭りのはじまりは、京都の祇園御霊会ぎおんごりょうえ(祇園祭のはじまりとされる神事)だといわれています。
 昔は、流行り病や災いは御霊ごりょう(恨みを残して死んだ人の怨霊や疫神)のたたりのせいでおこると考えられていました。長い鉾や高い木、山をかたどった飾り物などに御霊を依り付かせて川や海に流したり壊したりして霊や疫神を町の外へ送り出そうとしたのが山車の祭りのはじまりだと考えられています。

みなとつるが山車会館
https://tsuruga-yama-museum.jp/about-yama/yama/

 平安時代末期の儀式などが描かれた『年中行事絵巻』には、祇園御霊会の絵もあります。


京都大学貴重資料デジタルアーカイブより

 刀を長い柄につけた「鉾」(武器をかたどった祭器)を持つ人物、神輿を担ぐ人物などがいきいきと描かれています。平安時代は神輿の巡幸が主で、山車の巡行が盛んになるのは室町時代以降とのことでした。

 祭りが派手というか、華やかになっていき、屋台に車輪をつけて装飾に鉾を使うなど、変化していったそうです。全国的には、神輿の前後を山車が巡行するという形式が広まったとのこと。

 江戸時代では、氏神の神社の宮神輿が1基、そして、町内ごとに作られた山車が、祭りのときは江戸の町に練り出したようです。山車の高さは7~8メートルにも及んだとのこと。

 ところが、明治の中期に町に電線が張り巡らされるようになり、山車が電線に引っかかって危険なことから、代わりに町の人たちは町神輿を持つようになったそうです。

 武蔵大学人文学部の福原敏男教授は、インタビューで以下のように答えていました。

江戸時代には町神輿がなかった
──神田祭といえば各町会の神輿の宮入が華やかですが、江戸時代は町神輿ではなく山車を曳いていたそうですね。 
神輿の中でも「宮神輿」いわゆる神社神輿は、江戸時代には2基、明治以降は3基で、これは昔からあるものです。ただ、氏子の町神輿というのは早いところでは明治末年、多くは大正12年の関東大震災の復興のために始められました。震災で約14万人もの人々が亡くなり、東京から江戸の面影が壊滅してしまった。その復興の精神的絆として各町がお神輿を出したのです。3・11の時に、仮設住宅などでもお祭や郷土芸能が復興のシンボルとなりましたが、90年ほど前の東京でも同じことがあったのですね。町神輿の連合渡御こそが江戸時代の「粋」で「いなせ」なイメージに思われますが、始まりは90年前くらいのことです。
──江戸時代の神田祭はどのようなものだったのですか。 
明治時代半ばには廃れてしまいましたが、各町は山車で行列をしていました。祭礼行列はまず、神主、神馬、榊など、次に各町の山車行列が行き、以下、順番通りではないですが、神社の神輿渡御行列、当番町が行う附祭、諸侯の武具行列、町奉行所の警固と続きます。
江戸時代は、山王祭と神田祭が幕府の御用祭として隔年で交互に行われましたが、山王で50、神田で40ほどの山車が出ました。山車のテーマは雉子町なら白雉子、大工町なら棟上人形など、その町のシンボルであることも多く、町の特徴が出ていたのです。

江戸美学研究会 江戸時代の神田祭の主役は山車 人々が熱狂した附祭(つけまつり)とは
https://edodesignlab.jp/syunjyu_kandainterview/

 江戸時代に描かれた祭りの様子を確認してみましょう。

 神田大明神御祭図は、歌川貞重(歌川国輝)の作品。

国立国会図書館デジタルコレクションより

 江戸名所図会で描かれている「神田明神祭礼其四」でも、巨大山車が描かれています。
国立国会図書館デジタルコレクションより


 神輿ブームが起こったのは、第二次世界大戦後。1950~1960年頃には、1年で200基も神輿を製作した製作所もあったとか。

 話題を市川市に向けると、 「一説には、徳川家光の頃、日光東照宮造りに携わった匠たちが天領地であった行徳の地を譲り受けたのが始まりとも言われています。その技術を活かして神輿の製作が始まり、今井橋が整備される以前は神輿を船で運んでいた」と市川市は説明しています。ですから、1623~1651年に行徳での神輿づくりが始まったのでしょう。
 ただ、製作が盛んになったのは、神輿ブームの第二次世界大戦後、つまり高度成長期前半と考えるのが自然ですね。

■参考資料
『山・鉾・屋台の祭り研究事典』 監修/植木行宣 思文閣出版

『神輿大全』 監修/宮本卯之助 誠文堂新光社

市川市
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