国府台の断崖絶壁は消えたのか、そもそもなかったのか

  1834~1836年(天保5~7年)に刊行された『江戸名所図会』は、3代にわたって、三十数年を費やして完成させた江戸の地誌。パソコンを使ってちゃちゃちゃと原稿が書ける現代とは違って、1冊の本をまとめるにはかなり労力を費やしたことと思われます。

 そんな『江戸名所図会』に掲載されている国府台の崖の絵がこちら。

国立国会図書館デジタルコレクションより

 断崖絶壁。

 崖の下をのぞいている人の帯を、後ろの人が引っ張って、崖から落ちないようにと心配している姿が描かれています。

 これって、どこかで見たような……
 そうです、鋸山の地獄のぞきです。
Photo by (c)Tomo.Yun

 同じ頃に作成されたと思われるのが、版画「名所江戸百景 鴻之台とね川風景」。「鴻之台」は国府台の別称、「とね川」は江戸川の旧名です。作者である江戸時代の浮世絵師である歌川広重は、1797~1858年(寛政9~安政5年)を生きた人とのこと。

 この版画に描かれている崖も、やはり断崖絶壁。

文化遺産オンラインより

 浮世絵などは、かなりデフォルメされているといわれています。そのため、「国府台の崖は、そもそもこのような形をしていなかった」という意見もネット上にはありました。

 とはいえ、見ていないものを想像だけで描くというのは、特に風景では難しいものではないでしょうか。
 さらに、崖下がえぐれたようになっている点が、『江戸名所図会』の絵と「名所江戸百景 鴻之台とね川風景」で共通しています。

 以上のことから、かつて国府台には、これらの絵のように断崖絶壁があったと推測しています。

 根拠の一つが、ナイアガラです。
 「おいおい、なんで外国の話なのか?」と思われるでしょうが、昔の滝は現在よりももっと下流にあり、侵食によって今の位置まで移動したのだそうです。以前は年間1メートルずつ上流へ移動していたとのこと。
 年間1メートル。
 400年あれば400メートルです(当たり前……)。


ナイアガラが浸食されている様子Rook留学センターより

 国府台はナイアガラのように水によって浸食されてはいませんが、400年の間に崖が崩れ落ちた可能性は十分にあります。

 また、真間は崖の古い言葉で、つまりは崖が特徴的だったから、地名になったと思われます。

 正直、現在の真間・国府台周辺だと、「地名になるほど、すごい崖があるわけでも……」という印象ですが、『江戸名所図会』の絵と「名所江戸百景 鴻之台とね川風景」を見れば納得できます。


 ちなみに、真間周辺は今も崖崩れが続いているようで、「がけ崩れ警戒区域」が存在します。また、崖崩れを防止する工事の様子も目にしました。

 ですから、今の風景が、昔から変わらず残ってきたということはなく、自然や人の手によって作り変えられてきたのです。

 1868年(慶応4年 、明治元年)に玉蘭斉貞秀(歌川貞秀)によって作成された浮世絵「利根川東岸一覧」から勝手に想像すると、冬場などは岩肌が見える崖で、夏場になると草が生えて「名所江戸百景 鴻之台とね川風景」のように見えたのでしょう。

ADEAC 船橋市デジタルミュージアムより

 日本国内で崖の写真をいくつか見てきたところ、かつての国府台の崖は下の写真のような感じだったのではないかと。
しまね観光ナビ 島根県公式観光情報サイトより

 余談ですが、江戸時代よりも前の時代は、戦乱が続いていたため、庶民は観光旅行どころではなかったようです。生き延びるのに精いっぱい。
 国府台は、戦国時代だと国府台合戦が行われた地。そのほかにも戦いが繰り広げられていたため、庶民にはのんびりと絵を描く時間もなかったのでしょう。
 『江戸名所図会』に描かれている人物がユーモラスで、おそらく江戸のほうを見渡している人物の表情が味わい深く、「平和っていいなあ」と改めて思った次第です。


 崖に話を戻すと、自然の力で崖の出っ張った部分などが崩れ落ちた後に、明治に入って陸軍の施設が作られたことで、地形が大きく変わり、現在のような姿になったのだと考えられます。もちろん、あくまでも素人の推測です。

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