国府台で見つかった「古代の大型道路跡」の道幅はなぜ9メートルにも及んだのか? 兵馬俑や埴輪の完成度の高さから、つらつらと考えてみた
『クラナリ』編集人は、数十年前の子ども時代に、兵馬俑(へいばよう)を見に行ったことがありました。県内の博物館で展示されていたのです。
あの頃は幼過ぎて、「なんか、よくわからんけど、連れてこられた」という感じでしたが、今思うと、兵馬俑の技術は非常に高いですよね。
始皇帝を埋葬する際に副葬された兵馬俑だと、紀元前210年頃、今から2200年も前に作られたということになります。
![]() |
| ゆんフリー写真素材集より |
あのリアルな人型の焼き物の製造工程は、ナショナルジオグラフィックのサイトにありました。
当時は彩色も施されていたとのこと。そして約8000体が副葬されたと考えられています。これほど多くの兵馬俑を作るだけでなく、運搬するのも、一大イベントだったに違いありません。
副葬された焼き物といえば、日本だと埴輪。古墳時代の250~538年頃に製造されたことになります。
日本の埴輪に対し、中国では俑(よう)。兵馬俑の「俑」です。ただ、埴輪は古墳の上、つまり墓の外に並びますが、俑は墓の中に埋葬されます。用途の違いもあり、前者は単純で素朴、後者は写実的な作例が多くみられます。
埴輪のほうが、女性が踊っていたり、捧げものをしていたりと、バリエーションが豊かで、兵馬俑よりもなんだか楽しそうに見えます。
そして埴輪などから当時の服装などが再現されています。
![]() |
| 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館より |
ただ、水をくむ・農作業を行うといった作業がしにくい服装であることから、埴輪のモデルは一般庶民ではなく、「高貴な特別職の人々」ではないかと。長いスカートで水をくむと、裾がドロドロになるばかりか、踏んづけるなど危険。実用的ではないことから、もっぱら室内着だったと考えられます。
ちなみに、市川市内の弘法寺古墳からは、『市史研究いちかわ 第8号』によると埴輪は見つかっていないそうです。真間や国府台といった古墳があった地域は、戦争に関係した地域で、戦国時代の1479年に国府台城が築かれたり、1885年(明治18年)に陸軍の施設が置かれたりしたため、その際に古墳も副葬品も壊されてしまったと推測します。
どのように古墳を作ったのかについては、ゼネコンの大林組が素晴らしい資料を作成しています。5世紀中頃に作られたとされる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)について、どの程度の労働力や期間が必要となるかなどを試算しているのです。
さすがゼネコン!
古代工法工程表によると、およそ16年かかっています。そして、大仙陵古墳の埴輪数量は約15,000個!
なお、大仙陵古墳の主軸長は475mとのことなので、弘法寺古墳はその10分の1以下の規模になります。
弘法寺古墳は、6世紀後半~7世紀前半に作られた全長43mの前方後円墳。
市川市立宮田小学校の校庭より一回り小さい程度の大きさだったのかと思われます。運動会の50メートル走のときに、グランドを斜めにコースが取られていたからです。要は「狭い」ということですが。
規模が大仙陵古墳の10分の1以下の弘法寺古墳ならば、1年半で作れるかというと、単純計算はできないでしょう。大小問わず、準備工事・土木工事・葺石(ふきいし)工事という工程を経なければ作れないとしたら、3年ぐらいはかかるのではないでしょうか。
なんせ人力ですからね。
![]() |
| 季刊大林より |
「スキ、モッコ、コロを使用」と大林組の資料にありました。
コロ?
調べてみると、丸太を並べて、その上で大きな石などを転がせて運搬する方法があり、その丸太が「コロ」とのこと。コロが回転しやすいように、下には板を敷いて、上にもソリや板を置いたようです。
ソリは、「修羅(しゅら)」と呼ばれていて、大きな石「大石(たいしゃく)」と関係したそうです。これは古墳時代ではなく、仏教がすっかり広まっていた後世の話。
●大石(たいしゃく)→帝釈天
●ソリ→修羅、阿修羅
また、丸太を半分に割ったものを地面に並べ、油を塗って滑りやすくし、その上で大きな石などを運んだそうです。これを「ソリ道」というようです。
国府台県営住宅の建て替え工事の際に、「古代の大型道路跡」が見つかったとのこと。
道幅は一貫して9メートル前後に及び、両端に側溝も掘られていた国府台県営住宅の建て替え工事に伴い、昨年11月から実施中の発掘調査で、今月にかけて確認した。深さ1メートルほど土を取り除いた場所に、道路跡の構造が見つかり、排水用とみられる側溝の幅も片側4・5~1・8メートルと大型だった。
道幅が広かったのは、国府の建築材料を運ぶ際に、広い道が必要とされた可能性もあります。すべては人力。トラックのある現代とは大違いで、運搬は大変な作業だったに違いありません。
とはいえ、『日本書紀』に記述されているような「人が手渡しで石を運ぶ」のではなく、もっと効率のよい方法が採られたはずだと、大林組の資料に書かれていました。
兵馬俑や埴輪の完成度からも、古代の人々の技術水準は相当高かったと考えられます。
総務省の資料だと、鎌倉幕府が成立した頃の人口は、2004年のおよそ6%。古墳時代はもっと人口が少なかったと思われ、人が通るために9メートルもの道路を作る必要はなかったはずです。
それにしても、日本の人口は明治維新以降に急激に増加して、2004年をピークに、その後は恐ろしい勢いで減少するのですね。7年後の2030年には約3人に1人が65歳以上の高齢者。どんな未来が待っているのでしょうか。
![]() |
| 市町村合併の推進状況についてより |
■参考文献
季刊大林→メチャクチャ凝っています、これはスゴイ!
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/020_IDEA.pdf
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/020_IDEA.pdf
台車とは?台車の専門【エビスネットPROショップ】→非常に興味深い話が多く、お勧め!






Leave a Comment