1300年前の国府台の断崖絶壁を再現してみたいのだ 6 現在の風景をパッチワーク

 「古い地形をビジュアルで再現するときに、どうすればいいのか」を調べていると、案外簡単に"答え"が出ました。ただ、あくまでも"答え"だけです。

 今は、ゲームを自作する人も少なくないようです。架空の風景の画像(山とか川とか)を自作したいというニーズに応える形で、ネット上には多数の情報がアップされています。
 そのため、"答え"は見つかっています。しかし、途中の式がわからないのです。
 おそらく、地形生成で使用されているソフトを、ある程度使いこなせるようになってから、架空の風景づくりに取り組むことが多いのでしょう。ですから、ネット上の情報は、上級者向けなのかもしれません。
 試してきたのは、以下の2つの方法です。 

1 国土地理院から現在の地形のデータを引っ張ってきて変換し、ソフトで読み込んでから変形させる

 地形に関する情報を国土地理院が提供しています。それを変換すると、地形生成ソフトでも使うことができるそうです。測量士の人の情報などです。


2 最初から台地や川をソフトで作る

 こちらのやり方も、スクショ付きで多くの人が丁寧に説明してくれています。ただ、同じようにソフトを使っているつもりでも、同じ結果が出ないというか、説明どおりに進められていないのが現状です。


 再現しようとしているのが、以下の形状の地形です。図版の左上にあるのが、国府台の台地です。下は、市川砂州。
国土地理院地図、一部改変


 堤防などない時代には、現在の江戸川の上流から流れてくる水と台地の谷を流れる水、そして東京湾から入り込んできた海水とが混じる、水の都市、それが1300年前の国府台。
 水運・陸運ともに便利な場所だったのでしょうが、水運のほうが発達していたと考えています。

 真間側から見た国府台の風景は、次のようになるでしょう。
○台地は東京ドーム約8個分(アンデルセン公園1個分)だけ今よりも大きい

 欠真間の面積から、当時の台地は東京ドーム約8個分(千葉県船橋市のアンデルセン公園約1個分)、今よりも大きかったと推測できます。

 単純に、アンデルセン公園1個分の土地を国府台の崖の横に持ってくると、以下のとおり。
グーグルマップより、一部改変
 現在の里見公園の展望スポットから羅漢の井にかけて(図版の白い矢印が指す部分)が、崖崩れゾーンだと考えられます。
国土地理院地図、一部改変


○江戸川の流路は、現在よりも西側

 関東造盆地運動などで流路が変わってきているようで、1300年前の江戸川(太日川)の流路はもっと西、そして国府台付近でのカーブはなだらかだったと考えました。

 ところで、東京湾には広義と狭義があると、海上保安庁のサイトに書かれていました。
広義……三浦半島南東端の釼崎(神奈川県三浦市)と房総半島南西部の州崎(千葉県館山市)を結ぶ線以北。南西約30km、南北約80km、湾域の面積は約1、400k㎡。
狭義……三浦半島の観音崎(神奈川県横須賀市)と房総半島の富津岬(千葉県富津市)を結ぶ線以北
 
 約2万年前は氷期で、北極と南極を中心に氷(氷山、氷河、氷床)がたくさんあったので、海面は今よりも低い状態でした。ちなみに、海面が上がることは海進(かいしん)、下がることは海退(かいたい)と呼ばれています。
 当時は今よりも130メートルほど海面が低かったため、狭義の東京湾、つまりの観音崎から富津岬までが陸地だったのです。市川駅前のI-linkタウンいちかわ ザ タワーズ イーストは、 地上37階で高さは130メートルです。ですから、ちょうどザ タワーズ イーストの高さ分の海面の変化があったことになります。
 陸地だった頃の東京湾に流れていた川は「古東京川」と呼ばれています。現在の江戸川や荒川、多摩川などが合流して、太平洋に流れ込んでいました。

 氷期の終わり頃に温暖化が進み、約7000~6000年前には、現在に比べて海面が2~3メートル高くなっていました。これは「縄文海進」と呼ばれています。
 なお、縄文海進が終わったのは、海水の重みで、海の底が沈んだからと説明されています。

 縄文海進の後、今から約2000年前の弥生時代には海岸線が現在とほぼ同じになりました。
 その頃には、大宮台地の西側を利根川・荒川、東側を渡良瀬川が流れていたそうです。

 ところが、1500年前頃に、利根川が大宮台地北部(今の埼玉県行田市付近)で乗り越えて、台地の左側に流れ込むようになったとのこと。
 これには関東造盆地運動が関係しているという説があります。

 利根川の流路が変わったわけですから、支流である今の江戸川の流れにも影響があったはずです。

 江戸川は、平安時代に「太日川(ふとゐがわ)」と呼ばれていました。『更級日記』には「そのつとめて、そこを立ちて、下総(しもつさ)の国と武蔵との境にてある太日川といふが上の瀬、松里の渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す」という一文があるそうです。
 『更級日記』は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)の作品。父親である菅原孝標は、上総国の国府に赴任していたのですが、1020(寛仁4)年、菅原孝標女が13歳の頃に京都に戻ることになりました。そのときを思い出して書かれたのが、『更級日記』です。

○台地の西斜面は切り立った崖

 崖崩れがよく起こっていたので、土の層がむき出しです。
 茨城県龍ケ崎市のサイトに、地層がむき出しになった斜面の写真がありました。

茨城県龍ケ崎市サイトより


○台地の南斜面には民家(といっても竪穴式住居)も

 東京都清瀬市郷土博物館のサイトにある斜面の写真を見て、こんな感じだったと推測しています。

清瀬市郷土博物館のサイトより

○湾内は湿地帯で、草が自生
 
 以下の写真は、稲荷木付近から撮影した江戸川で、対岸は江戸川区です。

○市川砂州に松が自生

 市川砂州には、下の写真のように、松が生い茂っていたのでしょう。

京成電鉄菅野駅近辺

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