夢か、狂気か「ネオ・トウキョウ・プラン」その3 「電力の鬼」の存在感(2025年5月11日再構成)
東京の埋立によって新しい工場,住宅用地を造成する案は,この正月あたりから加納久朗氏によって提唱されているので,だれも驚かないが,松永安左エ門翁の産業計画会議でもこれを取上げて,さらに具体的な案を発表した。(中略)もちろん,松永翁の構想にも含まれていることだし,過大都市東京をさらに大きくするのが案のねらいではないと思うが,とにかく翁の目の黒いうちに,もっと根本的な国土計画案の具体化を期待したいものだ。
日本経済新聞 中外春秋「根本的な国土計画案の具体化を」
上記の日経新聞のコラムから漂ってくるのは、「松永安左エ門翁」の存在感。恥ずかしながら、松永安左エ門(まつながやすざえもん、1875-1971)氏について、クラナリが知るきっかけになったのは、ネオ・トウキョウ・プラン(『東京湾2億坪埋立についての勧告』に収載)でした(九州人としての面目が……)。
今回は、松永安左エ門氏についてまとめてみました。
※『東京湾2億坪埋立についての勧告』は一般財団法人電力中央研究所のサイトで公開されています。
https://criepi.denken.or.jp/intro/recom/recom_07.pdf?v2
https://criepi.denken.or.jp/intro/recom/recom_07.pdf?v2
ネオ・トウキョウ・プランを収載した『東京湾2億坪埋立についての勧告』をまとめたのは、松永氏が主宰した産業計画会議でした。
松永氏は長崎県の壱峻島の出身で、長崎県壱岐市には「電力の鬼・松永安左エ門記念館」があるとのこと。
また、神奈川県小田原市には「松永記念館」があります。
戦前・戦後と通じて「電力王」と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門の古美術品を一般公開するために建設した施設です。
実業家に茶人、美術収集家とさまざまな顔を持つ安永氏。評伝が多数あり、もちろんWikipediaでも詳しく松永氏が解説されていました。
明治8年に壱岐島の旧家に生まれた安左エ門は、14歳で福沢諭吉を慕い慶応義塾へ入塾する。諭吉にかわいがられるなかで、人生形成について大きな基盤をつくった。昭和26年、民営の九電力体制の整備にあたり、電気料金の適正価格算出を行った。各電力会社の要望は76%の値上げというものだった。電力需要の上昇に伴い、燃料の石炭が需要に追いつかず、できたばかりの電力会社にとっては発電設備も乏しく停電解消が精一杯の経営状態であったためである。値上げに対して世論の猛反発があるなか、安左エ門は日本復興のため10年、20年を見通して、値上げは必要なことだと主張した。まさにこのとき「電力の鬼」と呼ばれたのである。安左エ門の先見性は留まることを知らず、昭和31年には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自ら主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表し、議員や大臣、関係者に働きかけた。専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整備など、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであり、その大部分が後世に実現している。
「電力の鬼」と安永氏が呼ばれるようになったきっかけは、電気料金の値上げを働きかけたことのようです。
ネオ・トウキョウ・プランなどを作成した産業計画会議については、1956(昭和31)年、安永氏が81歳の頃に発足したことになります。日経新聞の記者が「松永翁」と記したのも納得。
ネオ・トウキョウ・プランの発案者である加納久朗(かのうひさあきら、1886-1963)氏は、かねてから東京湾の大規模な埋め立てにより東京の拡張を提案していたわけです。しかし冒頭でも紹介した「とにかく翁の目の黒いうちに,もっと根本的な国土計画案の具体化を期待したい」というコラムから、ネオ・トウキョウ・プランが東京に偏り過ぎな上、やや誇大妄想的な側面があると日経新聞の記者が捉えたように感じられました。
ところで、どうして安永氏は産業計画会議を発足させたのでしょうか。
官僚嫌いで、官僚を「人間のクズ」と発言していた安永氏は、民間の力を、ジャンルを超えて集結させる必要性を感じていたからかもしれません。
私が産業計画会議を思い立ったのは、各界の造詣の深い方々からその知識と経験をお借りして、我が国産業経済の動向と産業拡大の規模について深い調査と研究を進め、日本の産業は如何なる姿のものにならなければならないのか、その理想的形態に到達するにはいかなる国民的努力が結集されなければならないか、などについて一応の目安と見通しを持ちたいからである。
ただ、エリートが集まって、机の上だけで話を進めてしまうと、ネオ・トウキョウ・プランのように、過激な方向に進みやすいのかもしれません。
※『東京湾2億坪埋立についての勧告』のデータは、電力中央研究所のサイトにあります。
電力中央研究所は、科学技術研究を通じて電気事業と社会に貢献する電気事業共同の研究機関として、1951年に創設され、以来70年以上に亘り、わが国の経済社会の発展を支える電気事業に、研究開発の面から寄与してまいりました。
サイト内には「松永安左ェ門の足跡」として、松永氏がどのような経緯で電力中央研究所を創設したのかが説明されています。
●松永安左ェ門の足跡
Leave a Comment