松井天山はどうして「本八幡」を描かなかったのか問題 生業としての鳥瞰図絵師
大正から昭和初期にかけて、鉄道網の発達に伴って、行楽ブームが巻き起こりました。宣伝と集客のため、各自治体や鉄道会社がパンフレットを作成しました。そこに掲載されていたのが、鳥瞰図です。
鳥瞰図の第一人者が、吉田初三郎(1884-1955年)。京都生まれの鳥瞰図絵師で、生涯に1600点以上もの鳥瞰図を描いたといわれています。
その影響で、鳥瞰図絵師を生業とする(あるいは、しようと試みた)人も現れたのではないでしょうか。
松井天山(1869?‐1947年、本名 松井哲太郎)はその一人だと考えられます。
千葉市中央図書館に松井天山の『千葉県市街鳥瞰図 全26図』が所蔵されているとのこと。
聚海書林で刊行した複製版は、鳥瞰図絵師松井天山により昭和2年から昭和13年までに写された千葉県の1市25町(現15市6町)の26枚の鳥瞰図です。
集録市町鳥瞰図千葉市街鳥瞰船橋町鳥瞰図東金町鳥瞰四街道鳥瞰市川町鳥瞰本納町鳥瞰勝浦町鳥瞰佐倉町鳥瞰津田沼町鳥瞰中山町・葛飾村鳥瞰 (中山町及葛飾村鳥瞰)八街町鳥瞰柏町鳥瞰木更津町鳥瞰幕張町鳥瞰図茂原町鳥瞰検見川町鳥瞰図佐原町鳥瞰大多喜町鳥瞰松戸町・明村鳥瞰 (松戸町及明村鳥瞰)一宮町鳥瞰大原町鳥瞰八日市場鳥瞰多古町鳥瞰図八幡町鳥瞰笹川町鳥瞰図成田山鳥瞰図(成田山新勝寺鳥瞰)
おお、「八幡町鳥瞰」!
市川市民なら、「八幡」といえば「本八幡」。
しかし、調べたところ、これは市原市とのこと。
ただでさえ、市川市と市原市は混同されやすいのに、こんなところまで! 紛らわしいですよね。
「八幡」は明治22年(1889)~昭和30年(1955)まで市原郡の町名。昭和30~38年(1963)まで市原郡市原町の大字、昭和38年以降、市原市の町名。(中略)松井天山の昭和9年(1934)11月写生「千葉県八幡町鳥瞰」に、本店が「魚惣」、海の家(休憩所)が「魚惣支店」として描かれている。
上記の26点のほか「千葉縣浦安町鳥瞰」もあるようですが、現在の本八幡周辺を松井天山は描かなかったと考えられます。
その理由は、「ここにはスポンサーがいなさそう……」ではないかと。
鳥瞰図の第一人者である吉田初三郎は、日本各地に呼ばれて鳥瞰図を描いたようです。千葉県を描いたものもありました。
吉田初三郎というカリスマであれば、鳥瞰図で収入が得られたでしょうが、その他大勢の場合、食っていけるほどの収入が得られなかったのではないでしょうか。
松井天山も、精巧な鳥瞰図を趣味で描いたのではないでしょう。仕事だったに違いありません。
航空写真がすぐにネットで見られる現代と違って、当時は地域を歩き回り、自分の手で下書きを何枚も作成して、かなり時間をかけて鳥瞰図を描いたと考えられます。片手間では無理。ですから、自分の衣食住のお金を、鳥観図絵師として稼ぐ必要があったわけです。
関西在住で、全国的にメジャーな吉田初三郎が行かなそうなところ。つまりニッチで、なおかつ、お金を出してくれるスポンサーがいそうな地域を選んで、松井天山が鳥瞰図を描いたと推測できます。
「千葉縣市川町鳥瞰」は1928年(昭和3年)に松井天山が発表した鳥瞰図です。陸軍の施設があった関係で、現在の京成電鉄国府台駅の周辺は飲食店などの産業が大いに発達していました。花街もあり、うーん、お金がありそう!
| 「千葉縣市川町鳥瞰」 |
また、「千葉縣中山町及葛飾村鳥瞰」も、中山法華経寺を中心に、門前町が広がっていることがわかります。
こっちも、お金がありそう!
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| 「千葉縣中山町及葛飾村鳥瞰」 |
鳥瞰図に自分のお店や家が掲載されていると、喜んで鳥瞰図を買う企業や人も珍しくなかったのでしょう。ネットが発達する前まで、いわゆる「地図ビジネス」というのも存在していましたし。
松井天山が活動していた頃は、駅があるかないかで、町の発達に大きな差が生まれたと考えられます。
駅名と開業日
〇市川駅 1894(明治27)年7月20日
〇下総中山駅 1895(明治28)年4月12日
〇市川真間駅 1914(大正3)年8月30日
〇京成八幡駅 1915(大正4)年11月3日
〇本八幡駅 1935年(昭和10年)9月1日
なお、1868(慶応4、明治元)年に発行された「利根川東岸弌覧」からは、「八幡」と「本行徳」が栄えていることがうかがえます。
JR本八幡駅の周辺は、江戸時代の後期には、市内の他の地域よりも栄えていたものの、時代が明治になり、鉄道、なにより陸軍の影響で隣の市川駅周辺が急発展したために、松井天山は鳥瞰図を作成しなかったのでしょう。
松井天山は、1947(昭和22)年2月11日に京成電鉄の踏切事故で死亡しました。
「易者電車にひかる」(『朝日新聞』1947(昭和22)年2月13日 千葉版)p211日朝9時ごろ京成電車海神駅付近踏切で下り電車にひかれて死亡したことが書かれています。
「易者」??
占い師ということですよね???
松井天山が占い師だと勘違いされたのか、鳥瞰図絵師と占い師を掛け持ちしていたのか……
つい、「後者の可能性が高い」と思ってしまいました。
今でこそ「当時の風俗がわかる」などと鳥瞰図が貴重に扱われていますが、昭和初期に鳥瞰図絵師だけでは食っていけなかったのではないかと。
松井天山は、福島県や群馬県でも鳥瞰図を描いていました。定住することなく、ある土地にたどり着いて鳥瞰図を描いては「買ってくれませんか?」と声をかけて、また別の土地に移っていくという生活を送ったのでしょう。
■参考資料
鳥瞰図にみる近代
千葉大学附属図書館報
図書館だより
明治期における民間地図製作技術の継承と革新-酒井捨彦をめぐる民間地図製作者とその地図に関する研究-

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