市川市の「市川」という地名は、いつできたのか

 市川市が誕生したのは、1934(昭和9)年11月3日。当時の東葛飾郡市川町、八幡町、 中山町、国分村が合併して、市川市ができました。つまりは、もともと存在した「市川」という地名が、市の名前に採用されたということです。

 市川市の広報紙には、次の記載がありました。

「市川」の地名は、江戸川が坂東(関東地方の古称)一の大きな川であったことから「一の川」と呼ばれていたことや、川船に荷物を積んで集まった人によって開かれた市場の場所であったことなどに由来します。


 あくまでも個人的な感想なのですが、衛星写真のない時代に、「江戸川が坂東(関東地方の古称)一の大きな川であった」と誰が知ることができたのでしょうか。

 また、古くから、坂東を代表する川といえば、「坂東太郎」と呼ばれた利根川です。
 徳川家康の事業「利根川東遷」のおかげで利根川は銚子市のほうへと流れていますが、江戸時代より前は利根川は東京湾に流れ込んでいて、隅田川はその下流だったといわれています。

 江戸時代以前までは、利根川と渡良瀬川とは、ほぼ平行して南流し東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、河口も異なっていた。下図「約千年前の水脈想定図」(利根町史第6巻)がその状況をよく表している。
 利根川本流は、一旦、会の川および浅間川の主要分流となり、加須市川口で合流後は、現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いでいた。ただし、武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合流や分流をしており、大雨や台風があると、流路の変更が繰り返され、常に固定的であったとは言えない。
 渡良瀬川の下流部は、久喜市栗橋付近は権現堂川、それより下流は太日川(ふとひがわ)(ほぼ現在の江戸川の流路)と呼ばれていた。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』や『義経記』には、隅田川と太日川が出てくる。

 利根川東遷後に、太日川が「利根川」と称されていた頃もありました。ただ、あくまでも利根川東遷よりも後の話。
 そう考えると、坂東太郎は「利根川→隅田川」ラインが有力と思われます。

 それはさておき、「市川」という名称について調べてみました。


 「市川町」の前身と思われる「市川村」を調べたところ、コトバンクで8カ所がヒットしました。
 以下はコトバンクのまとめ直しですが、データが古いようで、現在の地名が微妙に存在していませんでした。そのため、『クラナリ』でかなり加筆しています。
 なお、コトバンクが引用しているのは、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』とのこと。

宮城県

宮城県多賀城市市川村

[現在地名]多賀城市市川

 南宮(なんぐう)村の東で、塩竈から広がる丘陵と前面の沖積地に市川村がありました。北の加瀬(かせ)村(現宮城郡利府町)との境に、用水源の加瀬沼があります。東は浮島(うきしま)村で、当村から浮島村にかけて古代の多賀城跡があちます。
 村名は西端を流れる河川の市川に由来。
 「安永風土記」には、古い時代に、市川は大船も通る宮城郡内第一の大河であったので「一川」と呼ばれていましたが、津波の際に川筋が埋まり、小川になってしまったと書かれています。また多賀城の市の近くを流れていることから「市川」と名付けられたという説もあるようです(大日本地名辞書)。

※多賀城は724年に創建し、陸奥国府が置かれました。
※「安永風土記」は、江戸時代の安永年間(1772~1781年)に、仙台藩が村や知行所単位に提出させた記録で、正式には「風土記御用書出」。

茨城県

茨城県新治郡千代田村市川村  

[現在地名]調査中

 恋瀬(こいせ)川右岸の台地上にあり、北は府中平(たいら)村(現石岡市)、南は野寺(のでら)村。弘安大田文(おおたぶみ)に、南郡として「市河七丁」と書かれています。
 南北朝期に戦場となり、1338(建武五)年の税所虎鬼丸軍忠状(税所文書)に「右小田・志築凶徒等、去月廿六日寄来苻中石岡城之間、属于惣領大掾十郎入道浄永手、虎鬼丸家人片野彦三郎親吉、於市河舟橋并大橋爪、終日致合戦之刻」とあります。天正末期に佐竹氏の支配下に入り、1602(慶長七)年以降天領・旗本領となる。

※弘安は、1278~1288年の元号。大田文とは、中世に、一国ごとに国内の所領ごとの名称、田地面積、領有関係などを記録した土地台帳。

千葉県

千葉県安房郡天津小湊町市川村

[現在地名]調査中

 内浦の字市川付近に位置した漁村。
 中世には東条(とうじよう)郷内にあって市河と記録されていて、近世は誕生寺領でした。
 1275(文永一二)年のものとされる日蓮書状(日蓮聖人遺文)に、「かたうみ(片海)・いちかは(市河)・こみなと(小湊)の磯のほとり」とあり、「日蓮聖人註画讃」には日蓮の父である遠江国の貫名重忠が逃れた地として「安房州長狭郡東条郷片海市河村小湊浦」とあります。
 1604(慶長九)年、竜潜院(里見義康)の位牌料として地内の20石が誕生寺に寄進されています(「正木頼忠寄進状写」誕生寺文書)。

 1590(天正一八)年、慶長六年、1703(元禄一六)年の地震で村の大半が海中に沈んだと伝えられています(千葉県郷土史)。

千葉県市川市市川村 

[現在地名]市川市市川1~4丁目・市川南1~5丁目・新田2~4丁目・真間1~5丁目・国府台4丁目など

 現在の市川市域の西部中央、江戸川の左岸にありました。
 近世には佐倉道が通り、対岸西方の武蔵国伊予田(いよだ)村(現東京都江戸川区)とを結ぶ同道の渡船場(市川渡)や河岸場(市川河岸)が設けられていました。
 村の中央部を真間川が西流し、北は国府台村、東は市川新田。
 地内にある日蓮宗の古刹弘法寺の門前として発展し、江戸時代には同寺の敷地や寺領田畑は真間村とも呼ばれていました。交通の要衝として、また弘法寺への参詣客などでも賑わった市川村は、「江戸名所図会」などで「市川宿」とも呼ばれていました。「市河」と表記することもあります。


山梨県

山梨県山梨市市川(いちがわ)村

[現在地名]山梨市市川

 八幡北(やわたきた)村の北西にあり、笛吹川中流右岸の傾斜地から平地にかけてが市川村でした。村内を同川支流弟(おと)川が流れています。集落は霞森(かすもり)山の西麓に広がります。八幡入八郷の一つ。「市河」とも記されていました(甲斐国志)。
 「王代記」の1492(明応元)年に「一河合戦」の記録があり、同年武田信縄と武田(油川)信恵が家督相続を巡って内紛を起こし、7月22日当地で合戦となっています。1601(慶長六)年の検地帳(県立図書館蔵)によると、田畑の反別は後欠で確認できないが、屋敷地は4773坪で、屋敷数38。

石川県

石川県金沢市旧石川郡地区市川村

[現在地名]金沢市松島町

 伏見川下流西岸、古保(こぶ)村の西にありました。
 1228(安貞二)年に白山本宮で初めて行われた本宮・金剣(きんけん)宮(現鶴来町)・岩本(いわもと)宮(現辰口町)三社の臨時祭で、「横江一川住」の筑前入道行西が御供頭を勤めています(白山宮荘厳講中記録)。行西は大野(おおの)庄の地頭代代官で、1235(嘉禎元)年、一国平均役として造白山料米(段別五廾)が賦課された際、同庄地頭代生西らとともに拒否しました。

愛知県

愛知県新城市市川村

[現在地名]新城市横川

 塩沢村の東、吉川村の北に当たる場所です。東は乗本村(現南設楽郡鳳来町)に接しています。北は一部豊川に接するが急崖になっていて、船着(ふなつき)山東北麓の山間にわずかに耕地があります。古くは卒川(そつかわ)村と呼ばれていましたが、近世初頭にはすでに乗本村の一部となっています。このため独立の一村とは扱われなかったものの、山に囲まれて地形的に独立していたため、本村の乗本村から「市川組」と呼ばれ、乗本村名主から一括して年貢を割付けられていました。

広島県

広島県広島市安佐北区市川村

[現在地名]安佐北区白木(しらき)町市川

 志路(しじ)村の南に位置する東西に細長い村で、西は高宮郡大林村、南は秋山・三田の両村に接してます。高田郡に属していました。
 「芸藩通志」に「此村及び秋山・小越三村を併せてもとは一村なりしといひ伝ふ、広三里十八町、袤廿三町、東は開け、其余皆山なり、長田川村中を通じ南に走る、民産工商炭焼等あり」と記録があります。枝郷の正木(まさき)・栃谷(とちたに)・桧山(ひやま)は僻地で、桧山は高宮郡大林村の桧山に接しています。

※「芸藩通志」は江戸時代の広島藩の地誌で、江戸以前の安芸国と備後半国の地理や文化などが記載されています。
グーグルマップより


 千葉県市川市と共通点があるのは、宮城県多賀城市市川村。その共通点は「国府」です。


「千葉県市川市は江戸川のそばに市場が立ったことに由来する。ほかに二つの川が合流して一つになるところも市川といい、国府のそばを流れる川も市川といった。市川は一番の川に通じるので縁起がいい。そのため地名や名字に好んで使われたんだろう。」


 なるほど。国府の近くを流れる川が市川。
 しかし、江戸川は古くから「太日川(ふとひがわ)」と呼ばれてきました。平安時代中期に書かれたとされる『更級日記』に、太日川という記述があるとのこと。
 また、ほかの国府だと、近くの川が「市川」と呼ばれていたというデータが見当たりませんでした。

 ちなみに、「市川」は市川團十郎のように名字でもよく見られます。ですから、名字からもアプローチしてみました。すると、以下の情報がヒット。

①桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。
②宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。
③清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)などにもみられる。
④桓武平氏岩城氏流の族は現山梨県である甲斐国巨摩郡発祥。
⑤全国の市川地名が起源(ルーツ)である。

語源は、その土地の第一の川。川の付近に市の立つ川。
家紋は丸に楓、揚羽蝶、菱など。静岡県、長野県、山梨県など中部地方に多くみられる。


①千葉県市川市発祥。鎌倉時代に記録のある地名。地名は「市河」とも表記した。長野県佐久市前山で伝承あり。

②千葉県鴨川市内浦(旧:市川)発祥。鎌倉時代に「市河」の表記で記録のある地名。静岡県富士宮市大鹿窪で伝承あり。同地では南北朝時代に来住したと伝える。

③山梨県西八代郡市川三郷町市川大門発祥。平安時代に記録のある地名。長野県下高井郡野沢温泉村平林付近(旧:市川)は経由地。戦国時代に記録のある地名。東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣、山形県米沢市丸の内が藩庁の米沢藩士に江戸時代にあった。同幕臣は山梨県の市川からと伝える。同藩士は長野県の市川に戦国時代に居住していたと伝える。

④佐賀県佐賀市富士町大字市川発祥。戦国時代に「市河山」と呼称した地名。地名は「一の川」、「市之川」とも呼称した。

⑤山梨県山梨市市川発祥。江戸時代に記録のある地名。同地では戦国時代以前に居住したと伝える。

⑥長野県東筑摩郡麻績村麻市野川発祥。江戸時代に記録のある地名。地名は「市ノ川」、「市之川」とも表記した。同地に分布あり。

⑦宮城県多賀城市市川発祥。江戸時代に記録のある地名。

⑧青森県八戸市市川町発祥。江戸時代に「下市川」と呼称した地名。同地に分布あり。

⑨鹿児島県奄美市住用町大字市発祥。江戸時代に記録のある地名。地名の「市」を使用。同地に分布あり。

⑩地形。市と川から。善隣。大阪府泉南郡岬町多奈川谷川、大阪府泉南郡岬町淡輪に分布あり。

 名字にまで話題を広げると、逆にわからなくなってしまうという……

 市川市のサイトには、「南北朝時代の記録に“市河村”とされているのが最も古いと考えられています」と書かれていますが、「鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』や『義経記』には、隅田川と太日川が出てくる」「鎌倉時代に記録のある地名」という2点から、鎌倉時代に「市川」という地名ができたと考えるのが妥当ではないでしょうか。そして、消去法的に、「近くに市が立った川」説が有力と思われます。今のところは。



■参考資料
市川市の概要

市川のまち 地名の由来
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