「ニッケの池」はどうやってできたのか
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航空写真/国土地理院 |
現在、ニッケコルトンプラザがある場所には、日本毛織株式会社の中山工場がありました。工場の近くには「ニッケの池」と呼ばれる池があったそうです。
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1976年頃の地図(今昔マップより、一部改変) |
ニッケコルトンプラザがある土地について今昔マップで調べたところ、次のような変遷をたどったようです。
田んぼ→上毛モスリン株式会社中山工場→共立モスリン中山工場→日本毛織中山工場→ニッケコルトンプラザ以下は、レファレンス協同データベースより、一部改変。
1920(大正9)年 上毛モスリン株式会社の一工場として創設(中山工場)
1927(昭和2)年6月 日本興業銀行、旧上毛モスリン(株)の中山・館林工場の抵当権に基づき共立モスリン(株)を設立
1927(昭和2)年10月 共立モスリン(株)、資本金400万円五増資、日本毛織(株)325万円を出資
1941(昭和16)年7月 共立モスリン(株)を合併、日本毛織中山工場となる
1982(昭和57)年5月 工場閉鎖
新たなワードが出てきました。
モスリン?
「近代日本におけるモスリン」(先川直子 目白大学生活科学科教授)によると、特殊な「日本モスリン事情」が存在しました。
そもそもモスリンとは、平織の薄地綿織物でした。19世紀後半になると、ヨーロッパでは羊毛を原料にした薄地の織物が「モスリン」として生産されたとのこと。ただ羊毛が原料のモスリンはマイナー。あくまでもモスリンは平織の薄地綿織物で、それが今日まで続いているようです。
明治の日本には、毛織物のモスリンがヨーロッパから入ってきてしまったのです。そのため、「モスリン」は、細い梳毛(そもう、羊毛をくしけずって短いものを取り除き、並行にそろえた長い繊維)を薄地に織り上げた、平織の毛織物を指していました。
モスリンは「モス」「メリンス」「縮緬呉呂(ちりめんごろ)」「唐縮緬(とうちりめん)」とも呼ばれていたそうです。
明治・大正は、モスリンを使った色鮮やかな着物が人気だったのかもしれません。
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『明治・大正のかわいい着物モスリン: メルヘン&ロマンティックな模様を楽しむ』 |
毛織物の生産には、水が必要だったから池が作られたのでしょうか?
調べたところ、理由は別でした。葛飾区史に以下の記述があり、「工場を建てるために土砂が必要となって、掘ったところに水がたまった」ということになります。昭和20(1945)年頃の本田木根川町や本田渋江町には池が非常に多く、「三歩歩くと池に当たる」といわれるほどであった。これらの池の多くは、大正元(1912)年に京成電気軌道(現京成電鉄)押上線の線路を作る際に、土砂を得るために掘られてできたものだった。https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/5-2-1-287.html
この他にも、工場や学校など、大きな建物を建てるときに土砂を得るために掘られたという池が無数にあって、いつの間にか小魚やウシガエルのすみかになっていた。
(中略)
昭和20年代にはこうした新しい池にも釣り客が押し掛け、楽しむ場となった。例えば金町駅北側にはモスリン池と呼ばれる大きな池があった。東京モスリン金町工場注釈1に隣接していた池で、藻が多く、テナガエビ釣りの名所として知られていた。春から夏にかけて大勢の人が詰め掛けていた。
https://www.city.katsushika.lg.jp/history/ayumi/files/kanamachi/%E7%B7%A8%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A(%E9%87%91%E7%94%BA%E5%9C%B0%E5%8C%BA).pdf
工場建設に当たり、田んぼを埋めるために土砂が必要となって、上毛モスリン株式会社中山工場の周りの土地が掘られたのでしょう。そこに雨水などが流れ込んで、1941年以降に「ニッケの池」と呼ばれるようになり、当時は市民の遊び場だったようです。
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