田尻の橋楽橋と八幡の藪知らずの石碑の共通点 その2
江戸後期に田尻に橋楽橋を架けた伊勢屋宇平衛。
『白井町の文化誌』(著/鈴木普二男)によると、旧江戸崎下新宿に住んでいた瀬尾權六の三男として、伊勢屋宇平衛は生まれたのだそうです(江戸崎は、茨城県稲敷市内の地名)。そして江戸浅草花川戸の醤油酢問屋である伊勢屋飯田家を継いだとのこと。
伊勢屋宇平衛が、田尻だけでなく、各地に橋を架けたことは前回紹介しました。
■田尻の橋楽橋と八幡の藪知らずの石碑の共通点 その1
伊勢屋宇平衛が架けた橋の一つである「志らすばし」の石碑が、市川市八幡2丁目8にある不知八幡森(しらずやわたのもり)、別名「八幡の藪知らず」に「移された」と『白井町の文化誌』に記述があるのです。
| 「志らすばし」の石碑 |
市川市八幡所在の「八幡の森」に移された「志らすばし」の石碑総高一二六・〇cm、幅七四・〇cm、厚さ七・〇~一七・〇cmからその一端が窺える。
現在の境川で国道十四号の境橋辺りと考えられるものである。
『白井町の文化誌』
上の文での「境川」は、現在は真間川です。また「志らすばし」で検索しても何も引っ掛かりません。実際に石碑を見てみようと、八幡の藪知らずに足を運びました。
あまりにも達筆すぎて、読めない……
それにしても、筆で書いたかのように文字が彫ってあるところが、スゴイの一言。
志らすばし(とは読めないのだが……)
江都浅草花川戸町
○ いせや 宇兵衛
常陸國信太郡江戸崎
世話人○○
名主
加藤又○○
さらに、「不知八幡森」の石碑も、地元の名主である加藤又左衛門の協力で、伊勢屋宇平衛が建立したのだと『白井町の文化誌』に書かれていました。
再建
安政 丁 巳春
常陸國信太群江戸嵜
瀬尾權六三男
不知八幡森
世話人 加藤亦左衛門
浅草材木○
石工亦右衛門
江戸浅草花川戸町伊勢屋宇兵衛造之
別當 法漸寺二十○○
元世話人 中村屋與兵衛
「再建」とあるので、当初のものは壊れるなどのトラブルがあったのだと思われます。
法漸寺は天台宗・東叡山寛永寺(上野の寛永寺)の末寺で、江戸時代まで葛飾八幡宮の境内にありました。明治の神仏分離で廃寺となってしまいました。
また、「與」は「与」の旧字体で人名用漢字です。
八幡の藪知らずには、石碑が3つあり、奥から不知八幡森→志らすばしと来て、小さな石標が並んでいます。この石標に彫られた文字が、読めない……
○尺○○
寅車?
○○八幡大○神
御線?日毎月一日
當宿 世話人
五代目
中村屋
與兵ヱ
市川根本
石工 長兵ヱ
葛飾八幡宮で定期的に行われていたイベントを知らせるような石標の気もするし、違う気もするし……
話を志らすばしに戻すと、「国道十四号の境橋辺り」にあったようなので、境橋まで足を運びました。
真間川の下流で境橋を撮影すると、以下のようになります。
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