やがて悲しき内匠堀(たくみぼり)(2019年5月16日初出、2025年6月25日再構成)
先人が非常に苦労して開削した水路でも、あまりにも臭く、汚くなってしまったために、後に埋められたり暗渠になったりしたケースは珍しくありません。
その一つが内匠堀(たくみぼり)。江戸時代に、狩野浄天(かのうじょうてん)と田中内匠(たなかたくみ)によって開削された水路です。今の大柏川とつながっていて、八幡から行徳・南行徳を経て浦安に至りました。内匠堀のおかげで水田に水を引くことができたのですが、その後、住宅地化が進み、農業用水が不要になりました。加えて、下水道が整備されていなかった高度成長期に、大量の生活排水が流れ込んで臭くなり、蓋をするしかなかったのでしょう。
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天保国絵図下総国(1838年に完成、国立公文書館デジタルアーカイブより)を一部改変 |
江戸時代の行徳領は、今の浦安市から市川市南部(南行徳エリア・行徳エリア・妙典エリア・中山エリア南)、船橋市西部までで、30前後の村があったとされています。徳川家康が江戸幕府を開いた頃に、江戸への塩の安定供給のために、この地域は直轄領(天領)とされました。そのため、当時は塩田が広がっていました。
内匠堀を開削したとされる狩野浄天については、元の名前は「狩野新右衛門重光」で、小田原北条氏の家臣である狩野家の子孫という説があります。豊臣秀吉による1590年の小田原征伐で小田原北条氏が滅亡した後に、行徳欠真間に移り住み、行徳村源心寺の大檀那となり「浄天」と名乗るようになったとのこと。
もう一人の田中内匠は、小岩(こいわ ) 村(今の東京都江戸川区)から当代島村(今の浦安市)に移住し、この地域を開発したと『浦安町誌』に書かれています。
1810(文化7)年に刊行された『葛飾誌略』などによれば、この2人が行徳領の灌漑と排水のために水路の開削の公許を得たのが1620(元和6)年。
そして元和~寛永年間(1615~1644年)に水路が開削されました。道野辺村(今の鎌ヶ谷市)囃子水の池から当代島村の船圦(ふないり)川まで、約12キロメートルの流路です。
今の市川市立冨貴島小学校の近くには、八幡圦樋(いりひ、水門に設けられた水を流す仕掛け)があり、八幡圦樋よりも上流は冨貴川と呼ばれていました。
1805(文化2)年に作成された葛西筋御場絵図(江戸近郊に設定された幕府の御鷹場の地図)には、「冨貴川」の下流が「内匠堀」と記載されていました。
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葛西筋御場絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより) |
ここで疑問が生じるわけです。
「塩業が生業の地域に、農業用水をわざわざ遠くから引いてくる必要があったのか」
行徳領のうち、二子・本郷・印内・寺内・山野・西海神などの8村は、江戸初期には塩浜年貢を納めていたものの、その後塩田が荒れて(荒浜)、1629(寛永6)年には塩を年貢として納める村ではなくなっていたとのこと。
この情報から、塩業が続けられなくなった村がいくつか出てきて、行徳領でも農業用水が必要になったのだと推測できます。
内匠堀については諸説あり過ぎて、「排水目的で内匠堀が掘られた」というものもあったのですが、それならばわざわざ「真間堰八幡町内匠堀」からつなげる必要もないように思えます。
葛南雑記 内匠堀のページには、以下の記載がありました。
明和四年(1767年)四月の上妙典村明細帳の中で,「当村用水之儀ハ,真間堰八幡町内匠堀より引来り申候,水末之村方ニ御座候間,日干之年ハ干強仕候節モ御座候,尤永雨之節ハ江戸川通り満水仕候間,殊外内水差支田畑共ニ水腐ニ罷成候節モ御座候」
また、江戸時代の江戸川(今の旧江戸川)は汽水です。大潮の満潮時は、流山市付近まで海水が遡上するとのこと。
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P3~4 えどがわストーリー・江戸川区をとりまく水環境 |
塩分を含む汽水では、稲も野菜もうまく育ちません。ですから、今の旧江戸川沿いの地域や海岸沿いの地域では、農業用の淡水を井戸水や池(雨水)で得ていたと考えられます。ちなみに、今の江戸川は大正期に開削された放水路です。
南行徳・行徳・妙典エリアで「池」を検索したところヒットしませんでした。しかし、井戸については、たくさんあったと思われる情報が見つかりました。
新井寺のホームページにこの「新井」の町の由来らしきものが掲載されている。寺の創設は1616年であり江戸時代初期だ。船橋に住んでいた和尚さんがこの場所に来て、掘ったら井戸がでてきたとのこと。それ以来、この場所が水に潤い、寺が建てられ、「新井寺」と名付けられたそうである。
歓喜天行者のために掘られたといわれる閼伽井(井戸)からは現在でも行事の度にここから水を汲み上げて用いております。行徳には今でも多く井戸が残ってます。
以上のことから、江戸時代初期までは淡水を井戸から得ていたものの、江戸時代を下るとともに農業用水の需要が高まって、内匠堀が開削されたのだと推測しています。
『内匠堀の昔と今』(市川博物館友の会歴史部会)には、古い写真や昔を知る人のインタビューが掲載されていました。
『内匠堀の昔と今』p77より |
昭和の初期は、小舟を使って、内匠堀で家族や肥料などを運んでいたそうです。
また、1955(昭和30)年頃までは、内匠堀で洗濯する風景が見られたようです。
しかし、高度成長期に宅地化が進み、上流の冨貴川がドブ川になってしまいました。そして暗渠になったり埋め立てられたりしてしまったそうです。
内匠堀も、1961(昭和41)年頃から暗渠になっていきました。
内匠堀プロムナードは「親水緑道」と国土交通省の資料で紹介されていましたが、そもそも水が流れておらず、もはや水と親しむ場所ではありませんでした。
■主な参考資料
目次 / 第3章 近世の船橋 / 西海神浜周辺の塩業 市域村々の塩浜
狩野浄天夫妻墓石・供養塔(かのうじょうてんふさいぼせき くようとう)
かまがや取材日記 飛地 令和3年5月12日
西光寺 源心寺 (安樂院) 葛南組 2
~第2回 絵図でさがす浦安~
平凡社「日本歴史地名大系」
4 ぎょうとくかどうせき(行徳可動堰)
国土交通省 内匠堀プロムナード
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