江戸川は、江戸時代前期の1641年に「人工的に造られた河川」

  江戸川は、江戸時代、人工的に造られた河川


 国土交通省のサイトで、このように紹介されていました。
 しかし、千葉県市川市と東京都江戸川区の間を流れる江戸川の前身は、太日(ふとい)川です。平安時代に書かれた『更級日記』に、太日川の記載があります。

 にもかかわらず、「江戸時代、人工的に造られた河川」とはどういうことなのでしょうか?
 この記述について、調べてみました。

江戸川流域図(国土交通省サイトより)

クラナリ


 現在、千葉県銚子市が下流域の利根川は、江戸時代以前は埼玉平野から東京湾まで流れていました。流路を変えたのは、徳川家康による利根川東遷事業(1594~1654年)でした。
 
 もともと太日川(今の江戸川)は、渡良瀬川の本流だった庄内古川(しょうないふるかわ)の下流でした。上に掲載した「江戸川流域図」にある中川の中流が、庄内古川に相当します。

 利根川東遷事業の一環で、金杉(今の埼玉県北葛飾郡松伏町)から関宿(今の千葉県野田市関宿町)までの18kmが開削されました。開通したのは、1641(寛永18)年のことです。
 これによって江戸川の誕生となるようです。ただ、当時は「江戸川」とは呼ばれていませんでした。

 その後も流路は細々と変更されました。利根川東遷は、下の図のように、少しずつ進められていったようです利根川の東遷より。図は埼玉県立文書館保管、田口栄一氏蔵)

 地図の表記も一時は「利根川」などとされていて、定まっていませんでしたが、江戸時代の終わり頃に「江戸川」となりました。


□江戸川は、いつから「江戸川」と呼ばれるようになったのか問題(2025年6月14日「荒川西遷」「2本存在した江戸川」追記)



 1910(明治43)年には、「明治43年の洪水」「東京大水害」と呼ばれる大規模な水害が発生しました。それを受けて、江戸川や荒川などで治水工事が行われることになったのです。

 1910(明治43)年には、「明治43年の洪水」「東京大水害」と呼ばれる大規模な水害が発生しました。それを受けて、江戸川や荒川などで治水工事が行われることになったのです。

 1916(大正5)年には、江戸川の下流で放水路の開削が始まりました。この江戸川放水路の竣工は、1920(大正9)年です。
 同時期に、上流でも工事が行われていたのです。1918(大正7)年、庄内古川には新しい流路ができました。そして庄内古川がつながる先は、江戸川から古利根川(今の中川、下の図の赤丸)に切り替えられました。
明治43年の洪水 ~明治政府を動かした大洪水~より、一部改変

 つまりは、江戸川は下流だけでなく、上流も水路が変更されていたのです。

 今の江戸川は、茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、下流では旧江戸川と江戸川に分かれて東京湾に注ぎます。
令和元年 東日本台風(台風第19号)による利根川・江戸川の出水状況についてより


江戸川の起点付近にある関宿水閘門(川の建物・水門・閘門より)




 1990(平成2)年には、台風の影響で江戸川放水路の西岸の護岸が沈下しました。その復旧作業の際に「トビハゼ護岸」が造成されることになり、1992(平成4)年に完成しました。
江戸川放水路トビハゼ生息干潟の特性より


干潟をつくるより




 江戸川はさまざまな動物や植物が生育する自然豊かな川ではありますが、歴史をたどると川自体は自然物ではなく、なんだか「自然」とはいいにくい面もあると思った次第です。


■主な参考資料
国土交通省 江戸川の歴史

近代の江戸川改修事業 1911 (明治44) 年からの改修計画事業を中心に

越谷市デジタルアーカイブ 江戸川の改修


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